その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

楽をしたいから進路変更したと思われている話

 これまで7年間ずっと同じ夢を追いかけてきた自分を見て、「楽をするために進路を変更したのだろう」と思っている人が少なからずいると自分は思うのである。被害妄想だと言われればそれまでなのだが、自分はそういうことを思っている人は存在すると感じている。でも、自分はそんなことは全く思っていない。視界が開けたのもいい出会いをしたのも確かである。それでも自分がやりたいことはブレずに持っている。やりたいことがやれそうだと思ったから思い切って進路を変更したのである。自分がやりたいことをやれないのであれば、こういった決断をしていない。むしろ、進路変更した方が自分のやりたいことがやれると気づいたのだ。

 

 まず体育を教えたいと思って教育の世界に飛び込んだのではない。自分は小学校の先生になって全教科を教えるなんて器用にできるわけがないと思い、小学校教員の免許は取らないと高校生の頃から決めていた。自分が先生になりたいと思い始めたのが中学校で人生のターニングポイントも中学校だったため、自分も中学校の先生になって子どもの人生に何か少しでもいい影響を与えられるような教員を目指したく、中学校教員を志すようになった。中学校で何の教科を教えられるかと思った際に、全くすごい実績もないし、素晴らしいパフォーマンスを子どもたちに見せることもできないが、最も自分が楽しいと思える教科を自分の目線からの楽しさや体育から得られる喜びを伝えていきたいと思い、教科は保健体育に設定し中学校の保健体育教員を目指すと決めた。

 

 そこから全く決意がブレることはなかった。大学4回生になり春の教育実習へ行くまでは。教育実習も楽しみにしていた。学校現場に入れることにワクワクしていた。先生方の日々の様子を観察するいいチャンスだとも思っていた。しかし、自分が思うようには全くいかなかった。それは自分だけが悪いことではないとどうしても思えない。もちろん自分が未熟でいけないことがたくさんあったが、それ以上に環境が圧倒的に悪かった。環境のせいにしたくないし、自分が全面的に悪いと当時は思っていたが今は全く思えない。どうしても思えないのである。これは環境のせいなどではなく、例えば「一畳の部屋でサッカーをしろ」と言われているような感覚である。どう考えても誰がどう見ても不可能という状況が広がっていた。それをいい大人が学生に対して与える環境ではなかった。そして真意が分からないのが、最もよくないと思うのである。教育実習に行かせていただいている側の学生に何の力があるのか。何の力もない弱い立場にいる者なのである。環境など変えられるはずがない。どうしようもなかった。そんな中で学べたことなんてごくわずかで、まず日々考える必要もないことを考えなければいけない状況であった。そんな経験をして「これまで何をしてきたんだ」「この先そんなんでは務まらない」と言われてしまっては自信はなくすし、求められていない人材として自分を俯瞰で見ることになる。その状態のまま秋の教育実習が始まった。

 

 秋の教育実習は本当に楽しかった。たったの2週間でその時間も一瞬で終わってしまった。教育実習で「まだ終わって欲しくない」なんて思うと思ってもみなかった。温かい環境を与えてくださった。初対面ということもあったのかもしれないが、「そこまでしてくださるのですか!?」ということばかりだった。ありがたかった。自分も優しい気持ちになることができた。いい連鎖ができていると感じた。特別支援学校教員の免許は副免許として取得しようと考えていたが、大学4回生の秋に「この免許を使って生きていこう」と思うようになった。たったの2週間が自分の人生をガラリと変えた。雲の向こう側に隠れていた輝かしいものが見えた感覚だった。「自分がいたい世界と作っていきたい世界はこれだ」と何の疑いもなく思えた。しかし、本当によく考えた。体育だけを教えるのではない。部活動の指導も本格的なものではない。などいろいろ考えた。それでも自分は進路を変更した。それでも秋の教育実習で先生方が大事にされているものや子どもたちに指導したいことが結局大事なことで、自分も「子どもたちが生きていく上で大事なことを指導したい」ということが教員を目指す原点にあったため、一般校より指導できると思った。全教科に携わらなければいけないとも思ったが、1人で授業をすることはなく、多くの先生方で授業づくりをしている姿も見させていただいたため、やっていきたいと思った。

 

 いろんな人に「もう中学校で体育を教えたいという気持ちはない?」と聞かれる。自分の正直な気持ちは、「今はない」である。今は特別支援学校での教員に魅力を感じているが、まだ働いてみてもいないためどうなるかこの先のことは分からない。逆に一般校でやってみたいと思うかもしれない。でも、全く未練はない。楽をしたのではなく、楽しかった方を選んだ。当たり前の話である。体育には体育の実態が広がっており、それなりの覚悟をしていたが、その想像の遥か上を超えてきた。それで逃げたのではない。また違う角度から教育を学んでいきたいと思っている所存である。