その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

「過程」を見る

 どれだけ「過程を大事にすべきだ」と訴えかけても、首をかしげる人間がいる。結果にしか興味がない人間ももちろんいいてそのことに関してはいいのだが、過程を大事にする人間を罵倒するのは違うと思う。これもいつも言っている。自身の考えが全てであると思い込み、他人の考えを否定してはいけない。結果だけ見て一喜一憂するだけではただただ単純なストーリーしか生まれないと思う。

 

 自分は結局中学校の保健体育教員を目指すのを辞め、特別支援学校教員としてやっていただけせていただけることになった。結果だけ見れば「諦めた人間」として人の目には映るのかもしれない。自分は他人にどう思われようと構わない。しかし、自分は昨年の6月からの半年間で本当に様々なことが起こった上で今があるため、その過程をなくして自分の「現在地」を語ることは不可能と考える。「氷山の一角」という言葉があるように、結果だけを見てその人の何が分かるのかと思ってしまうのである。

 

 自分のことを例に挙げて話を進めさせていただく。中学3年生から中学校の保健体育教員になりたいと熱い思いを持ち続け、そのまま高校を卒業し教育学部へ進学した。「体育の先生になるために」ということしか考えずに大学へ入学したし、入学後もその思いも変わらなかった。周りの人間は教師という仕事のブラックさやそもそも教師になれる確率が低いところから次々と夢半ばで諦めていった人も少なくなかった。自分はそれなりの覚悟をしていたつもりだったし、そう簡単には諦めたくなかったし、諦める理由もなかった。特別支援学校の教員免許は副免許として取得することを決め1回生から特別支援教育に関する科目を履修していた。だが、それが自分にとって助け舟になるとは思ってもみなかった。

 

 本当に実際に経験するということは大事だと思った。自分にとって人生を大きく左右したものが「教育実習」だったからだ。教育実習に行くまでは分からなかったものまでが、細部にわたって見て聞いて感じることができた。もちろんいいものも悪いもの全て含めてである。「地獄も天国も味わった」というまさしくあれである。教育実習を結果だけ見れば、また感情は違ってくる。昨年6月の教育実習なんて結果は最低だったが、教育実習へ行くまでは母校ということもあり、とても楽しみにしていたのだ。だから、結果だけでは分からないことがあるのである。逆に、昨年11月の教育実習はトラウマで本当に行きたくなかったし、こんなに素晴らしい経験をさせていただけるような教育実習になるとは思っていなかった。ストーリーを追って、その人間を知ろうとするという観点が大事だと自分は考える。