その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

「話す」大切さ

 「付き合いが長いから分かるだろう」なんてことはありえない。いくら長年付き合いがあったとしても、言わなければいけないことや言いたいことは口にしなければいけないと思う。自分も昔は「これくらい分かってくれよ」と思っていた。今であればワガママで甘えであるということは分かる。そんなの言葉にして伝えないと分かってもらえない。いくら家族でも親友でもである。

 

 「教育実習は指導教官との相性が命」ということは声を大にしてこれからも言いたいのだが、6月の教育実習では全く指導教官と話さなかった。というか、話せない状況だった。聞きたいことも教えて欲しいこともあったが、そんなことをできる環境ではなかった。「自分で考えなさい」と言われるか、抽象的に怒られるかのどちらかだった。本当に何を伝えたいのかが分からなかった。朝教育実習ノートを提出する時、連絡事項を聞く時、授業を参観した後のお礼、あとは怒られる時した話をしなかったと記憶している。今考えてみても酷い。顔を合わせたら怒られると思っていたため、なるべく会いたくないとまでに思っていた。でも、それで余計に話さなかったため、どんどん距離は遠のいていった。本当に必要最低限の業務的なことしか話した覚えがない。改めて「とりあえず行っとこう教育実習」になってしまったと後悔している。

 

 一方、11月の教育実習では初対面の指導教官とはいえ、とてもたくさん話すことができ学校現場のことや指導教官自身のことを教えていただくことができた。子どもの家庭環境や特性まで学生という立場であればきっと教えていただけていないだろうことまで教えていただけて嬉しかった。これから学校現場へ出ていく者として見てくださっていたことが話している中で分かっていけたことに対しても喜びを感じていた。指導教官と話す時は幾度となくあった。朝から子どもが下校するまでの間でとても話すタイミングがったため、たったの2週間でも深い関係を築くことができた。指導教官の車に乗せていただける機会があったのだが、とても楽しく会話をさせていただけた。自分のことについても優しく聞き出してくださるため、安心感に包まれながら車中で揺られていた。指導教官と話が尽きなかった。話す中で何を考えているのかが分かった。とても自分のような教育実習生をよく扱っていただけているのも話していく中で感じていた。話すことでとても距離が縮まるということが改めて分かった。

 

 話すことを面倒くさがる人がいる。話すのを諦める人がいる。それで伝わっておらずぶちぎれる人がいる。「話すって大切だ」とやはり思うのである。自分も話してもらわなければ分からないことだらけだ。なぜ教えてくれないのか、どうして話そうとしないのか。言いたいことだけぶちまけてそれで果たして意思疎通ができているのかと疑問符が頭に浮かぶ。これから働く上で話すことは大事なこととして続けていきたい。