その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

神様からのメッセージ

「あなたは神様が存在すると思いますか?」と質問されたことがある。このような経験をしたことがある人ももちろんいるだろう。自分は神様という存在を幼少期の頃は信じていたし、家の仏壇の前で手を合わせることも多かった。それは家庭教育において先祖様は大事にすべきだと教えられてきたこともあり、仏壇の前で手を合わせることは習慣化している。そして、中学生から学校の特色によりキリスト教の文化を触れることとなり、仏様と神様の違いに気づいた。中学生からキリスト教の勉強をしていると、神様の存在を信じる習慣が続くこととなった。つまり、神様はいると感じて今の今まで来ている。

 

 神様からのメッセージというものは節目節目であるとも思っている。もちろん自分の意志で選択・決定をしてきていると思っているが、どこかで神様の導きというものもある、運命というものもあるのではないかと考えている。小3の時の担任の先生との出会いで勉強を楽しいと感じるようになった。その先生が担任でなければ勉強は人並みにしかせず、中学受験をせずに地元の中学校へ進学していたかもしれない。中学生になり、中1~中2の間は自分はどう生きていけばいいのかを模索する時期だった。本当に心が折れそうで、腐りきってしまいそうだった。でも、部活という自分が心の底から楽しいと感じられることに一生懸命になれた。それが救いとなった。そして、中3の時の恩師との出会い。自分の人生の大きなターニングポイント。神様が救ってくれたのだろうと思わざるを得ない。そして、大学受験の時もきっと何のかは分からないが褒美として合格をいただけたのだろうと思う。

 

 そして、今年。大怪我を経験し受験に初めて失敗した。これは確実に神様からのメッセージであると自分では思っている。「人の痛みを辛さを体感して優しい人の気持ちを思いやれる大人になりなさい」「まだ人の前に立って導いていく力はないため出直せ」という2つのメッセージを受け取ったつもりでいる。確かにそうだと自分の中で納得している。まだまだ人に優しくできていないのかもしれないと思ったし、まだまだ未熟で誰かの先頭に立とうなんて力が備わっていないと思った。これでいい。神様の決められたことは間違いないと感じている。

 

 宗教がどうのこうのという話ではなくて、神様がいると考えることで全てに納得がいくような気がする。なぜこの時期に怪我をさせたのかと神様を憎む気持ちは正直あった。しかし、これが自分にとっても試練でこれを乗り越えた先には成長した自分がいるかもしれないと気持ちを切り替えることで、怪我をしたことも強みに変える決意をした。神様からのメッセージを見落としていては、成長するチャンスすら失うことに繋がるため、必ず神様からのメッセージは大事に財産にしなければいけないと考えている。