その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

子どもに寄り添う

 物理的にいつも子どもの側にいるということが子どもに寄り添うということではないことは大体の想像がつく。「どのような教員になりたいと思われていますか?」と面接官に聞かれ、「子どもに寄り添える教員です」と答える受験生は多い。自分も子どもに寄り添える教員になりたいと、自分がしてもらったことと同じように自分が教員になった際の子どもに返していきたいと思っている。でも、よくよく考えてみると子どもに心理的な面で寄り添うとはどういうことなのか曖昧な解釈をしていたような気がする。

 

 そう思うきっかけとなったのは、昨日放送された24時間テレビスペシャルドラマ「生徒が人生をやり直せる学校」である。世間の言葉を使うならば、「荒れた学校」を舞台に生徒一人一人の抱える問題が描かれていた。校則は「制服を着る」ことのみだ。ヤングケアラーでお腹を空かせたくないため体育の授業を休んだり、母親がアルコール中毒で家に居場所がなかったり、妊娠をしたり誰にも頼れない、大人に打ち明けることのできない生徒が大勢いる学校だった。自分は正直、金銭的に困っている人に出会ったことがないし「荒れた生徒」と交わったことがない。そして、自分自身もそういった苦労をしたことがない。ありがたい話である。

 

 自分ならどう対処するだろうと思いながら学園ドラマは見てしまう。教員をされている先生やこれから教員を目指す者は誰しもそうだろうと思う。その中で印象に残ったのは、お腹が空いている生徒にパンを奢った先生に対して、他の生徒が「パンをあげて満足なのか」と言い放ったシーンだ。確かに、自分も良かれと思ってといった言動はありがた迷惑だと思うし、パンを1つ生徒にあげることなんて簡単なことで実は表面的な解決はできたとしても、結局は何の解決にもなっていないことは分かる。でも、その生徒は続けて「(人間の)底辺の気持ちなんて分かるわけがない」と言ったのだ。この生徒たちはそのようなことを思って生きているのかと思うと何とも言えない気持ちになった。子どもは無力だ。子どもが悪いわけではない。何をやっているんだと一言怒ればまた生徒が委縮してしまう。悪循環の始まりだと思う。

 

 経済面の問題で夢を持てない、目の前の生活をすることで精一杯な生徒がほとんどだった。美容師になりたい、保育士になりたいという立派な夢はあるけど結局「お金がかかることは無理」とそこで折り合いをつけて生きていくことを余儀なくされる生徒ばかりだったが、先生たちは諦めなかったしどうにか経済面を気にせず夢を追いかけることができる環境を作り、絶対に生徒のことを見捨てない精神に感動した。その子自身が困らせているのではない、困っているんだという言葉も印象的だった。「何か助けて欲しいことある?」「足りないことある?」と聞くことも、デリカシーのないことなのではないかと思うようになった。どんな子どもにもそれなりのプライドがあって、そのプライドが傷つけられそうになると心を開くどころか、更に敬遠してしまうだろう。あるいは学校の世話にはなるなと親に言われている生徒もいるかもしれない。「力になるから何でも言ってね」なんてなんとなく軽くて無責任な言葉だ。心が通い合っていない人同士の会話の中で入れてはいけない言葉だと感じる。何でも言える状況でないかもしれない。想像力が常に欠かせないのが教員という仕事かもしれない。でも、やはり子どもの力になりたいということは嘘偽りない気持ちであるため、子どもの気持ちを踏みにじることなく、心を開いてもらえるような方法を模索していく。