その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

素直すぎる

 何事も限度というものが存在する。限界を超えると「もう無理だ」と声を上げたくなる。自分は目上の人に敬語を使うのが苦手で、中1の時に高2の先輩に呼び出された。「なぜ何度も敬語を使えと言っているのに使えないんだ」みたいな感じで尋ねられた。これまでずっと見逃していたけど、度が過ぎているから呼び出したそうだ。どうやらその先輩の許容範囲を超えてしまっていたらしい。そういった感じで超過することはあまり良くない。

 

 突然だが、自分は人よりかなり素直らしい。そんなことに気づかずに15年ほど生きてきた。小学生の頃は尖っていたし、間違った認識をしていたこともあり自分のことを素直だなんて全く思ったことがなかった。でも、教官が「素直なところが良いところだ」と中3の時に教えてくれた。最初教官の言っている意味が全く分からなかった。「どこをどう見てそう思ったんだ」と疑問に思っていた。具体的に教官に聞いてみれば良かったのだが、中3の自分は聞かなかった。時を経て、教官にまた面と向かって「素直だ」と言われた。でも、それに加えて「素直すぎる」と言われたのだ。「歳を重ねるにつれて素直が増したのか」とクエスチョンマークが頭にたくさん浮かんだ。どれだけ教官に怒られてもどんなことを言われても、真正面から受け止めて全てを反省している姿が素直すぎるというように映ったのかもしれない。でも、自分には流すことができなかった。ただの教育実習であればここまで反省することも凹むこともない。ただ、指導教諭が教官というだけで成長を見せたいという気持ちもあったし、「教師として」指導してもらいたいと思っていたため、思い入れも違っていた。教育実習にかける思いは人一倍あったという自負がある。

 

 「素直すぎるのもたまにキズ」だそうだ。自分には全く分からない。素直なことは良いことだと思っているから余計に、その範疇を超えてしまったらそれはそれでいけないなんて、そんなことを「はい、分かりました」と呑み込めるほど、高度な技術を持ち合わせていない。教官に求められることは本当にレベルが高くてついていくのに必死だった。教官に意見を求められた時にはきちんと意見を言っていたのに素直すぎると感じ取られたのは、どういうことなのかと未だに考えている。「でも」「だって」という言葉を使ってしまっていたが、「すみません」と何はともあれ、自分が悪かったという意思は示していたつもりだ。それが素直すぎるということに繋がったのかもしれない。こればっかりは分からない。これから考えていく。