その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

他人から見える自分と自分から見える自分

 野球観戦において、ライトスタンドから見るバッターとレフトスタンドから見るバッターとでは見え方が明らかに違う。見ている角度が違うのであるのだから、当たり前である。それを「自分の見え方」に置き換えてみても同じことが言える。でも、そんなこと昔は気づかなかった。

 

 こんなこと普段は言わないが、自分は自分のことを真面目で割と素直な方だと思っている。しっかりとしているわけではないため、できるだけ真面目な部分は出したくないが、仲のいい友だちには完全にバレてしまっている。それはそれで、よく分かってくれているということであるため、ありがたい。言われたことは必ずやるし、指摘されたことは良い意味でも悪い意味でも全て真正面から向き合い、呑み込む。でも、積極性はないし周りを見て動くことはとても苦手である。このように自分のことについて理解しているが、他人にはそう見られていないこともある。

 

 教官は中3の時の自分の印象をそのまま大事にしてくれていた。元気で明るくて周りを見て行動できてリーダーシップを発揮できる。その反対で、失敗をクヨクヨ反省しネガティブに考えてしまうとそこまで理解してくれていた。しかし、間違っていることもある。正しくは、自分は自分でそうは思わないということかもしれない。周りを見て行動できてリーダーシップを発揮できるタイプではない。クラス長をやる機会も多かったし、クラスの先頭に立って言葉をかけることがあったため、そういう印象があったのかもしれない。が、自分のことですら精一杯なのに他人に注意を向け、周りのことを気にかけるなんて自分からすれば高いハードルなのである。

 

 そのギャップが大きすぎて教官と噛み合わない日々が続いてしまったのである。教官からすれば「できるよね?」というスタンスでも、自分は「そんなことできる人間ではございません」といったようにズレが生じてしまっていた。こんな状況少し考えれば分かるが、とても疲れるのだ。もちろん教官も思っていたことをこなせない人間が目の前にいて疲れるだろうが、自分も当たり前にできると思われていることがしんどいと思っていた。期待されるされていないという話とは別である。

 

 そういうのって努力では何ともならない。どうしようもないのである。「~と思っていたのに」「~できるんじゃないん?」と言われたことが幾度とあったが、その度に「すみません」と言うしかなかった。これは、「変な期待」をさせているということだと思った。でも先程書いたようにどうしようもない。分かり合えていると思っている人でも自分が見える自分のことを理解してもらえないということは正直寂しい話だが、それくらいその差を埋めることは難しいと感じた。