その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

言い訳

 何を言っても言い訳と言われた。何をしても言い訳と言われた。その時その時は「なぜこんなにも言い訳だと言われて自分が悪者にされなくてはいけないのか」と深く考えたが、今では自分の弱さが出てしまったのかと反省している。もちろん言い訳をしているつもりは到底なかった。言い訳しているなんて子どもでしかないと思い、本当に情けない気持ちでいっぱいである。

 

 確かに振り返れば「やろうと思っていた」という言葉をよく口にしていた気がする。逆の立場になれば一瞬で分かる。「じゃあやれよ」と一刀両断したくなる一言である。「なぜこれをやらなかったのか」「どうしてあれをやっていないのか」ということを聞かれた時、どうしても言い訳のように弁解していたように思う。怒られている時に「やっていなければいけなかった」「やるべきだった」と反省することが多かったため、言い訳のように聞こえてしまうことも自然と多かったのではないかと自分は考える。

 

 親子の会話で、「宿題やったの?」「今からやろうと思っていた」というやりとりはよくあると思う。ほとんどの親がこの次に言いたいのが「じゃあ今からやりなさい」という言葉がほとんどであろう。その感覚と似ている気がする。情けないが、もちろん自分は子ども側である。子どもの心理的に「まずいところをつかれた」と思うのだと思う。だから、即座に切り返し「やろうと思っていた」という言葉を発すのである。これもまた逃げの一種である。「これ以上怒られたくない」という気持ちが全面的に出ている様子が伺える。

 

 「だって」「でも」と発言することもあった気がする。きっとそれは大人の世界では禁句なのである。指導していただいている身分で反論するというのはやってはいけないのだろうと思う。自分は、ケンカは好きではないしもちろんしたくない。だから、話し合いをしているつもりだった。「聞いてください!自分はこう考えています。」という話をしたかっただけなのだが、それを言い訳と捉えられたのは自分の力不足であることがあらわになっただけだった。「それは違うだろ」なんて偉そうなことは言えないし、言うつもりはなかった。でも、自分の考えは聞いて欲しいという気持ちはいつだってある。だからこそ、聞いて欲しかったのだが言い訳だとその一言に尽きると言わんばかりに、話が終わってしまった。それだけ自分の言っていることが、逃げている発言に聞こえたのだろう。これもまた情けない話だ。

 

 こちらにだって言い分がある。そのことだけは分かっていて欲しかった。今となればそれだけで十分だと思える。が、その時は「言い訳だなんて言われて悔しい」と思っていた。ケガが理由でできないことなんて動き出しが遅れることなんて山ほどあった。でも、「ケガをしているから」なんてことを言おうもんならどうなるか分かっていたから絶対にケガのことには触れなかった。ケガが理由の場合は言葉を飲み込んだ。それについてだけは未だに悔しさが残る。しかし、そんなことを言っていても仕方ないことは分かっている。大前提として、怒られた時に謝っていた。謝ってから思っていることを話していた。言い訳になりそうなことは避けられるように、言い訳になりそうなことは口にしないように気をつけていきたいと思う。