その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

「不器用」という名の逃げ

 自分は普段から「自分は不器用です」ということを口にしている。個人的には短所として話すことが多い。単純に器用な人間に憧れる。手先が器用とか、物事を同時進行できるとか幅広く器用な人間を羨ましいと幼少期はよく思ったものだ。歳を重ねるにつれてこう思うことは少なくなった。しかし、それは「自分は不器用です」と自分で自分を認めたことがきっかけである。

 

 「自分は不器用なので1つのことしかできません」ということを認めることによって、楽になった自分がいたのも事実だ。でもそれは逃げていることだと気づいたのも最近である。1つのことにしか集中できないなんてきっと社会に出ると通用しない。今まで1つのことに集中して全力をそこへ注ぎ込むことはカッコいいことだとまでに思っていた。しかし、何か1つのことしかしていて成り立つ仕事なんてきっとない。それでは自分は社会でやっていけなくなる。

 

 中学校・高校の時は、部活に打ち込んでいたから、勉強は全くと言っていいほどにしてきていない。宿題をして小テストの勉強をする毎日で精一杯だった。でも、文武両道という言葉があるように両立ができる人もたくさんいるのだろう。自分はそこに分類されるような人間ではないと思っていたが、無理にでもしなければいけなかったのだ。小学生の時、中学受験を控えながらサッカーの試合に出たりしていたから、小学生の頃はもしかすると両立ができていたのかもしれない。ということになれば、両立できる体質だったのかもしれない。いや、やるべきだったのだろう。

 

 大学生になって、教員になることはとても大変だということが改めて分かったため、部活もしないし接客業のアルバイトもしないと決めた。もちろん部活はしたかったが、今まで部活を第一に考える生活を送ってきたため、我慢をして勉強に一生懸命になる生活を送るべきだと判断して部活はしていなかった。アルバイトも体力的に余裕もあるし、子どもと触れ合える家庭教師を選んだ。でも、何もかも頑張らないといけなかった。

 

 先程接客業という言葉をちらっと出したが、接客業をしている人と自分は大きく違うということに気がついた。ずっとこれまでも背客業をやっている人に対してリスペクトの気持ちは抱いていたが、より一層高まった。「何が足りていないか」「今何をすべきか」ということを考えて行動できる。家庭教師しか経験していない自分は、そういうことが自然にできない。会う生徒と保護者は変わらないし、考えることと言えば志望校合格に向けて何をしていかなければいけないかとかどんな小テストを作るかといったようなことだ。そういった意味での緊張感は全くない。初対面で保護者の方と軽くお話をさせていただいて、生徒と距離を縮めようとしていればいずれお互いに慣れて緊張なんてものはなくなる。生徒が宿題をしていなかったり授業があることを忘れて帰って来なかったりすることはあるが、言ってしまえば、基本楽しく働くことができるし接客業に比べて苦労も少ないのだろうと思う。結論、自分は厳しい環境で働いたことがない。でも、今なら接客業を経験しておいた方が良かったと思う。

 

 勉強する時間がなくなるから部活をしない、体力的に余裕がなくなるから接客業を経験しないということは「不器用」という名の逃げになるということが最近になって分かった。しかし、後悔はしていない。全て自分が決めたことだし、自分の考えも一理あると思っているからである。不器用だからできないと言うのはやめようと思う。もちろん何かがおろそかになるようであればそれもそれで問題であるため、自分のペースでやっていこうと思っている。キャパシティの広い大人を目指していきたい。