その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

やってきた「つもり」だった

 自信があると思っていることが蓋を開けたらそうでもないという状況が最も辛い。自分の尊敬する人にそう思われることほど虚しいことはない。何も自分ができない人間であると現実を突きつけられ、自分は本当に自信を喪失した。もちろん誰が悪いわけではない。自分の勉強不足、実力不足のせいである。

 

 大学4年間。教員になるために必要なことを学んできた。「授業ってどう作っていくのか」「生徒とどのように関わるべきなのか」とか本当にたくさんのことを勉強してきた。教員になることも、教員になってからの仕事も大変であることは分かっていた。父の姿を見ていればそう感じざるを得ない。それくらい生半可な気持ちでできない仕事であると覚悟してこの道を選んだ。でも、自分が考えていたことは間違っていると思わされた。「教員として」ということ以前に「社会人として」できていないことが山ほどあった。そんなこと考えてもみなかった。先のことを見据えて動くなんて計画的な自分は自然にできると思っていた。でも、実際に学校現場にいると全くできていなかったのだ。頭で考えることが必ずしも行動で示すことができるかと言われればそんなわけはない。研究と修養、座学と実践のように真逆のことである。先のことを考えて動くことができなかったと書いたが、少し語弊があるため訂正しておく。先のことを見据えて動くことができなかったのではなく、相談・報告をせずに動いて怒られたり自己解決して結局動かない決断をして怒られたりしたと言った方が正確であると思われれる。自分で決めたことでも報告することや自己解決するのではなく質問することをしないといけなかった。こんなこと社会人として当たり前のことのようで自分はよく「学生気分だ」と言われてしまったものだ。だから、教員として大切なことを学びに行ったのだが社会人としてできていないことが多すぎてほとんど社会人としてできていないことについて怒られていた。

 

 「1人で動いてんの?」と怒られたことがあった。確かに、1人で考えて1人で判断して1人で行動していた。でも、それが通用するはずがない。指導教官がいてしかも学校という組織の中で。でも、そうせざるを得ない環境だった。正直、実習生以外頼れる存在はいなかった。以前このブログにも書いたが、教官に怒られる日々が続いて怖くなって距離もできてきて、頼れるわけがない存在になってしまっていた。自分の思考回路が「尋ねたら怒られるのではないか」になってしまって何も聞きに行けないというようになってしまったのだ。だから、気づけば1人で動いている状況になってしまっていた。恥ずかしい話だが、そのことに自分は気づかず自分で何とかしなければいけないと思い込んで必死だったもんだから、教官によってハッとさせられた。

 

 学んできたこともできると思っていたことも全てそれは自分の感覚にしか過ぎず、やってきた「つもり」だったのである。それを丸裸にさせられた時の恥ずかしさと情けなさはこの先ずっと消えないだろうと思う。自信があってやる気満々だったけど、そんな空っぽの自信なんて持っていたって仕方ないと思ったため、またゼロからやり直す気持ちでいる。人間毎日勉強だということは、重々承知しているし謙虚な気持ちは忘れないよう意識をしているが、改めてそれを実感させられた。自信を確信に変えられればこのような失態を招くことはないと考えるため、「つもり」という甘えた実態で満足してはいけないと思っている。