その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

体育の人間

 考えを持つことは大切であると自分も思う。もちろん自分にも言いたいことがあって、思うこともある。でも、それは青汁とかダイエット食品のCMでよく見かける「個人差があります」みたく「あくまでも私はこうです」って感じくらいで述べるべきである。そうすることを自分は密かにエチケットであると思っている。でも、「昭和の人間」と言われる人って押し付ける癖があるように思う。勘の良い人には分かると思うが、「昭和の人間」と言っても一概には言えないため、押し付ける癖がある人は昭和の人間であるという傾向が強いというだけであるし、自分が出会ってきた中でということである。

 

 自分は平成生まれである。ゆとり教育を経験していない昭和世代の人たちからすると甘えた教育を受けている人間に分類されてしまうのだろう。でも、平成と一括りにすることもやはりできないのである。自分の5歳下というだけでも大きく考え方も感じ方も違うであろう。自分が中高生の頃は、部活で土日も練習があったり校則を破るとペナルティがあったりしたが、今はノー部活デーがあったり校則を破っても注意を受けるだけと自分が中高生の頃とは何もかもが変わっている。でも、自分はそれを見ても何も思わない。先生がグラウンドから見えたら帽子を取って深々と頭を下げ大きな声で挨拶をするということが自分にはもう習慣として体に染みついているが、現役で部活をしている中高生にはそんな習慣などない。それを見ても「時代が変わった」と思ってそこで終わってしまう。そういったことができないだけで、ボコボコに怒られていたことが懐かしいとさえ思ってしまう。

 

 そういったことを「昭和の人間」と呼ばれる人たちは、許さない。「時代が何だ!」「時代ってことで済ませられる話じゃない!」といったように怒っているのだろうと思う。でも、時代には逆らえないのが事実である。それに気づけない人もいてどうにかしようと無駄な抵抗をしようとして嫌われている人を何人も見てきた。そして、その昭和の概念を押し付けるのである。「私たちはこうだったからこうしなければいけないんだ」と決めつける人もいる。自分はそれは違うと思う。自分がやってきたことはやってきたことで、それを後輩に強制するということをしたことは一度もない。だから、その感覚で「昭和の人間」と接していると話が嚙み合わないということがあった。

 

 それに伴い「体育の人間」という概念もある。当然、人それぞれ「体育の人間とはこういう人のことを言う」という考えがある。「昭和の人間」と呼ばれる人は「上下関係を大事にして考える前に動く」ということをやってきたのだろうと思う。だから、それを求められることが多かったが、そんな時代で育っていない自分は当たり前に適応できるわけがない。これはひねくれているわけでも開き直っているわけでもない。「令和時代に昭和時代での当たり前をやれ」と言われても単純にそれを知らないのだからできないし、終わった時代のことをやる必要もないと考える。それでも「私たちはこうしてきたからやれ」と言う人は根強くいるわけだ。でもそんなことを熱弁してもらったところで「そうですか大変でしたね」としか思えないわけである。ぜひ時代に沿ってもらいたいと強く思う。

 

 そもそもその「昭和の人間」が考える「体育の人間」に自分は全く当てはまらない。上下関係を好まないし、考えてから動いていきたい慎重派である。後輩に失礼な態度を取るなとか敬語を使えとか先輩を敬えなんて言ったことなんてない。別に敬語を使われないことや敬われないことに対して一々怒る心理があまり理解できない。敬ってもらるほどの人間だなんて自分のことを思っていない。だから、理解できないのだろうと思う。そして、考えずに動くことも不安で仕方ない。とりあえず動いてみるなんて自分にはできない。できないのなら「体育の人間」にはなれないと言われるかもしれないが、そう言われても気にする必要のない時代が現代なのだろうとも思う。だから、自分は時代に沿って学びをやめないでいたいと考える。