その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

贔屓をしたところで何も生まれない

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「贔屓をしたところで何も生まれない」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 まず大前提として、人間を皆平等に愛することなんてことは不可能だと思っています。以前に書いた「誰とでも仲良くすることは難しい」といったブログと似ているかもしれません。でも、だからと言って贔屓をしても良いということにはなりません。いじめっ子がいじめた理由として良く言う「いじめられる子に原因があるから」という言葉がありますが、だからいじめても良いということには繋がらないということと同じなのです。

 

 自分は中高一貫校へ進学し、約6年間心の底から楽しいと言える学生生活を送ることができました。だから、母校のことも同級生のことも部活動の先輩・後輩も大好きなのですが、入学したての中学1年生の頃は人間関係に悩んでいたというよりは、うんざりしていました。同級生と揉めて、先輩に対して不満が募っていたのでダブルパンチ状態でした。同級生と揉めた話は、今後更新するブログに書くつもりなのでそちらを読んでいただきたいと思います。いつになるか分かりませんが、気長にお待ちください。では、今日は先輩に対しての当時の不満をお話したいと思います。そもそも、自分は先輩に媚を売ったり先輩を立てることが大の苦手で言ってしまえば、嫌いです。自分の部活動の同級生は当時自分を除いて2人いて、その2人は先輩付き合いが得意で、すぐ先輩たちに可愛がられていました。一方、自分は先輩付き合いが苦手なので全く可愛がられていませんでした。そこまでは自分も許容範囲です。先輩にとって可愛がってもメリットのない後輩であるので、可愛がられなくて当然かもしれません。でも、贔屓は違うと思います。きっと先輩たちは贔屓をしているなんて思っておらず、贔屓をしていたという自覚がありません。しかし、いじめのように被害者側が「いじめられている」と言えば、もうそれはいじめになるわけですから、その理論と全く同じです。ここで何が言いたいのかということをまとめると、「贔屓をして先輩にとって何のメリットがあるのか」ということです。考えてみて出た答えが、「何もない」でした。後輩である自分との関係は悪くなって練習で気まずくなるし、約9年の時を経てこのようにブログで暴露されてしまって何もメリットがないように思います。何も生まれないのですから、いじめ同様贔屓なんてするものではありません。

 

 それを反面教師に自分が先輩という立場になった時に、特に仲の良い後輩というのはいましたが、もちろん贔屓はしませんでした。仲の良い後輩に対しても練習で違うと思ったことはきちんと伝えるし、曲がったことをしていたら注意をしていました。贔屓をすると何でも許す傾向になってしまうような気がします。そうすると絶対に贔屓される側の成長はないということになります。結論、自分は贔屓はしてはいけないと思っています。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「逃げ場を作る」を予定しております。ではまた次回。