その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

プライド「だけ」高い人ほど中身は空っぽ

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「プライドだけ高い人ほど中身は空っぽ」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 ぶっちゃけますと、自分は元プライド「だけ」高い人間でした。どういうことなのかと言うと、蓋を開けると実力も魅力も何もない人間なのに、表面だけを作り込んで他人に良く評価されるように変なところで頑張っていたということです。不器用で何も自慢できることがないことが悔しくて、見た目だけではそれが分からないように繕っていました。今考えると本当にしょうもないことをしていたと思います。

 

 小学生の頃は家から一歩出ると良い子を演じて、背伸びをして作った自分で生きていました。例えば、学校のテストは絶対100点じゃなければ自分の中では許されないことだったし、習い事はたくさんして忙しい毎日を送っているべきであると思っていたし、失敗やドジはカッコ悪いことだと思っていました。本当に昔の自分がダサくてカッコ悪くて恥ずかしいです。学校のテストで100点しか取らない、毎日放課後は習い事で忙しくし、失敗やドジをしないことが正義だと思って今の歳まで生きてきたかもしれないとゾッとします。よく分からないようなことを追い求め、結局「これは間違いだ」と気づいて振り返ってみて「得られたものは何ですか?」と誰かに聞かれたとしたら自分は何も返す言葉がありません。プライド「だけ」高くても何も良いことはなかったわけです。

 

 今は逆にプライドが全く高くないし、できないことや苦手なことを素直に受け入れ真摯に受け止めています。表だけを取り繕ったところで、他人から評価はされるかもしれませんがどんどん化けの皮が剥がれていき、評価してくれていた他人も自分から離れていきます。自分は中学校から小学校の頃の友人と離れてしまったので、実際に自分から離れていったという経験はありませんが、きっと自分から離れていってしまう友人もいたはずです。小学生の頃はまだ見えている世界が狭かったんだと思いますが、自分に自信がありました。学校で学ぶこと(勉強以外も)で苦手なことやできないことが正直ありませんでした。他人にも評価され天狗になってしまっていたんだと思います。でも、地元から離れた中学校へ行き、自分が得意だと思っていたことを他人も「できて当たり前」という現実を見た時、自分は何もできない人間であることに気づきました。自分は何も特別でないと思うようになりました。プライド「だけ」高くて、中身が空っぽだと他人からの信用もないだろうしコミュニティも広がっていかないと思っています。プライドが高いことを悪いと言っているのではありません。実力に伴ったプライドを持つべきだということです。プライドの独り歩きは後々自身を苦しめることになります。プライド「だけ」を高く持ち生きようと思うのではなく、自身の中身で勝負しようと強い意志を持って生きていきましょう。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「反面教師」を予定しております。ではまた次回。