その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

下剋上

 歴史が得意ではないため定かではないが、確か戦国時代に出現した言葉だと認識している。下剋上はいつの時代もカッコいいと自分は思っている。ドラマでもアニメでもそうだが元々強い者が勝つ展開は正直もう見飽きているし、ドキドキハラハラすることがない。

 

 少し話はズレるかもしれないが、自分はまだ何者でもなければ何も成し遂げたことがないまだまだ家族や周りの人に守られて支えられているただの大学生である。それは常に意識している。だからと言って、「ただの大学生にできるはずがない」と諦めるという話ではない。挑戦者という立場を忘れたことはない。学生の頃なんて挑戦の連続である。特別な人間でもなければ、何かに秀でているわけでもないのだからいつでも挑戦者という立場は当たり前だ。

 

 自分は下剋上を果たした経験がいくつかあるが、最も印象的なことを今日は紹介させていただこうと思う。これまでのブログで書いたことがあるかもしれないが、よければお付き合いいただきたい。中高6年間の部活に8割以上の時間と労力を使ってきた。強豪校でインターハイ常連校…と言ってみたいところだが、全くそういうことではない。むしろ、真逆である。ほとんど全員が初心者で部員のみんなは部活を目的に学校に来ているわけではないため、はっきり言って大学のサークルみたく活動している気分の子が多かった。それでも、自分はやる気があったし自分の代はラッキーだった。というのも、ソフト部に入ろうという子はなかなかいないため、部員の人数が少なかったが自分の代の1つ上の代が7人で単独チームで試合に出ることができていた。ちなみに自分の代は2人でソフトは9人いないとできないスポーツなので、ギリギリでやっていた。そういういこともあり、自分たちは練習もしっかりやって真剣にやっていた。それでも練習量や試合経験は他校には勝てず、勝つことはレアだったが段々と勝てるようになっていった。

 

 このチームを結成して4年目の自分が高1の時にチームとしての転機が訪れる。チーム全体を見てもそうだったが、自分の調子がとにかくよかった。中高6年間で1番ソフトが楽しいと思っていた時がその高1の頃だった。高1の夏に毎年恒例の大会があるのだが、いつも優勝する学校があった。どの学校も太刀打ちできないほどに強い、強豪校だ。もちろん自分たちなんて足元にも及ばないレベルの差である。毎年決勝に行けてもそのチームと当たり、1点も取れずに終わるのだがその年は自分のホームランで1点をもぎ取った。コールド負けもしなかった。自分たちからすれば上出来だった。これがもしかすれば自信になったのかもしれない。その年の秋に初の県大会出場を決めた。本当に誰も想像していなかった現実だった。県大会を決める最終戦でコールド負けをし、本当にラストチャンスの敗者復活のトーナメントに回った。普段練習試合をやっても公式戦でも当たってもなぜか負けていた。細かいプレーを丁寧に行うチームでなぜか負けていたと書いたが負けて当然である。そんなチームとこんな大事な場面で当たるなんて神様はいじわるだと思った。最後の県大会出場枠を競い、結果自分たちが勝利を収めた。これが下剋上だと思った。心の底から嬉しかった。全身全霊で守って攻めた結果で、余裕で勝てた試合ではなかった。相手チームもまさか我々に負けると思っていなかっただろうから、茫然としていたと思う。守備にミスが出たり、訳の分からない走塁をしてしまったりしていたが、打線が爆発していた。自分もこんなに活躍できた試合は後にも先にもないのではないかと思っていた。

 

 「いつも負けてばかりだし、今日も勝てる」と鼻で笑われていても、「勝ってやるよ」と泥臭くカッコ悪いプレーでもいいからと戦った結果だと今振り返っても思う。試合中「なんぼのもんじゃい」と何度か思ったことを今でも覚えている。どれだけ格下であれ、戦う場が与えられているのであれば引っ込む必要はない。正々堂々とやってきたことを自信にして「やってやる」という気持ちが最も大事なのである。

自分と向き合う

 自分は仲のいい人たちとワイワイするのが好きである。お酒を一緒に飲めたら更にいい。むしろ、誰かと一緒にいないと寂しさを感じる。大学生になり一人暮らしを始めたが、寂しさをMaxに感じてしまい、新生活がスタートして1週間が経った頃に実家に帰ったという経験がある。18年間ずっと一緒に暮らしていた家族に無性に会いたくなってしまったのだ。そんな自分だが、1人での時間を昔から作る習慣がある。

 

 小学生の頃は、リビングに勉強机があったため自分の部屋というのはなかった。1人になって考える時間を作りたいが、場所がなかなかなかった。どうしていたかというと、風呂があまり得意ではないのだがわざと長風呂をして1人の空間を作り出していた。風呂で毎日を振り返っていた。「今日は誰とどんな話をしたか」「先生にかけられた言葉は何か」「習い事の出来はどうだったのか」と自問自答し続ける。そこで、個人的に行き詰っていることがあるのであれば、それも併せて考える。これを小学4年生くらいからやっている。なぜこんなことをしているかというと、自分はいざという時に他人に頼るのが苦手だ。頼りないのだが、自分のことしか頼れない。困った時に「どうするんだ」と聞く相手は必ず自分だった。家族とは仲がいいがそういったことは話さない。隠し事をしているわけではないが、相談したところで決めるのは結局自分だしなと思ってしまうため、概ね解決したあとに言う。「1人で抱えていた」とそこは正直に明るく話す。親と仲はよくても、「何でも話して」と言われたことはない。悩みが基本ない子だと思われているし、それもあながち間違っていない。「悩んでいても解決できる力はないから」と繰り返し言っているから知っているのかもしれない。

 

 小学4年生で中学受験することを決めた。塾に通いたい意志も示した。お金持ちでもエリートでも何でもないただの一般人が中学受験をするなんてことは並大抵のことではなかった。もちろん親族に中学受験をしたことのある人は誰もいないし、我が家には事例がなかった。相談することはしていなかっただろうが、相談相手もいなかった。成績が思い悩むこともあったし、苦手科目はずっと克服できずにいた。そんな時は風呂で考えることが多かった。国語の読解問題が苦手だと分かれば、小学5年生でも小学3年生くらいの問題に取り組み、易しい問題からやってみようかと自分なりに答えが出れば風呂から上がるようにしていた。

 

 中学生になれば、勉強で生きていくことが難しいと感じ始め、「何で生きていくのがベストなのか」ということを考えるようになった。中学生になると妹と同じ部屋だったが、勉強部屋が与えられた。妹がしっかりと勉強をしている空間で自分は「将来どうしよう」と椅子に座って考えていた。これはなかなか答えが出ず、1~2年はかかった。そんな日々を繰り返していた。部活一色で染められた中高6年間は部活のことで考え込むことが多かった。1人で机に向かって泣いている時も珍しくなかった。

 

 自分と向き合う時間は大事である。「何がしたいか分からない」と言う人がいるが、そういう人は確実に自身を見失っているのだろうと思う。まずはどんな人かということを理解するといい。得意科目をもっと得意にするのか、苦手科目を克服するのかの2択でさえ、2通りに分かれるだろう。それは、そもそもの成績から見える伸びしろや個人の性格によるメンタルキープなどを考える必要があるし、キーになるからである。自分と向き合えば、いろんな自分と可能性を見つけることができる。自分はそうだった。自分を無視してしまっていたら、スポーツが好きな自分を封印していただろう。そう思うと今はないし、恐ろしい話だと思う。悩んで迷っている方はぜひ自分の声に耳を傾けてみて欲しい。

 

 

東京パラリンピック2020

 パラリンピックもオリンピック同様、4年に1度行われるスポーツの世界大会である。これまでオリンピックが終わればパラリンピックが始まるため、パラリンピックも楽しみにして見ていた。もちろん今年も見ていた。昨日閉会式が行われ、大会が締めくくられた。しかし、今年のパラリンピックは自分にとって今までの大会と違う気持ちで見ていた。何を隠そう、怪我をしている状態で見ていたからである。

 

 自分が大怪我をするまでは、ただ単に「すごすぎる」「自分なんてちっぽけだ」と思っていたが、今はパラリンピックに出場されている選手のことを身をもって尊敬する。自分の場合、今は右脚が言うことを聞かない。術後ギプス固定12日目であるため、地面に脚をつけることも許されない。松葉杖がないと移動が不可能であるし、動きたい衝動にも駆られる。でも、自分は治る怪我だから希望を持ってリハビリにも励める。ずっとこの体と付き合っていかなければいけないとなれば覚悟とその中でも前向きに生きていくメンタルの強さが必要だとなると、またそれは話が別である。自分のマイナスな気持ちなんて口にしてはいけないほどに小さいものだと思った。視覚障害脳性麻痺、切断…本当に様々な障害がある選手がパラリンピックに出場していた。生まれた時から腕や脚がなかったり、突然目が見えなくなったりと障害と付き合っている時間やタイミングも違う。オリンピックが閉会された時にも思ったが、本当にスポーツを通じて繋がれ、感動を与えてくれた大きな感謝の念を抱いた。

 

 教員を目指すようになって、特別支援教育のことを勉強していくようになるまでは「障害のある方はかわいそうだ」と思っていた。でも、そんな同情はして欲しくないだろうと思うようになった。自分も同情は嫌いだ。どうしようもないことを共に嘆いてもらっても何のプラスにもならない。受験に失敗してかわいそうにと言われて嬉しい人はまあいないだろう。そんな感じで障害のある方も同情されると逆に辛いものがあるのだと思うようになった。あまり気を遣いすぎるのもよくない。「~してあげる」というのも間違っているのである。だから、オリンピックを見るテンションでパラリンピックを自分は見ていた。同じように感動して同じように勇気づけられた。

 

 今年のパラリンピックは違った見方になったが、改めてスポーツは人の心を動かすものがあると感じることができた。どんな状況であれ、世界に挑戦できるチャンスがあるということがそもそも素晴らしいし、そうであるべきだと思った。パラリンピックも日本はたくさんのメダルを獲得し、大盛況に終わった。どれだけ努力をしたのか、どんな思いがあるのかオリンピック同様考えながら見ていた。全ての姿が眩しかった。3年後のパリ大会もワクワクしながら見たいと思う。

好きなことをとことんやる

 今日の話は自分の人生論に近い話かもしれない。これまでのブログ内でも触れてきたこともあったため話が重複してしまっていることがあるかもしれないが、そこは了承して読んでいただきたい。人間誰だって好きなことだけをして生きていきたい。でも、現実はそんなわけにもいかない。働かなければいけないし、税金は納めなければいけない。そんな中で好きなことを極めるということはとても大事なことであると考える。これは決して自分のことを正当化しようとしているわけではない。そして、「何となく」ではなく、「とことん」というところがポイントである。

 

 自分は小学生の頃、ゲームが好きだった。目が悪くなってしまったきっかけもゲームであるほどにゲームが好きだったのだが、やはり周りには理解されない。それでも、自分は何も悪いことをしている気がしなかった。実際に悪いこともしていない。学校の宿題もいち早くやり、習い事をすっぽかしたこともない。だから、そこまで怒られることはなかったが、「ゲームをやって何になる?」という目線は間違いなくあった。しかし、自分はゲームクリエイターになりたいと思っていた時期があった。そうなれば、理にかなっていると思われないだろうか。ゲームがやりたいからそう言っているだけだと思われるかもしれないが、小学生の頃の夢なんてそんなものだ。それでも真剣に考えていた。もちろん勉強もしっかりやらないといけないのは分かっていたが、ゲームをやるのも必要だと思っていた。クリエイターになりたいと思うため、「どういったようにゲームが作られているか」とか「どんなゲームが人気なのか」と自然に考えるようになる。そういうように繋がっていくため、小さなことでも好きなことは大事にしていかなければいけないと思うのである。

 

 それからというもの、自分は好きなことを大事にして生きてきた。生きている間に、好きなものと出会えることなんて奇跡に近いと思っている。「そんなことできない」「こんな小さい趣味が将来に繋がるとは到底思えない」と思う気持ちも分かる。でも、何が人生に関係して助けてくれるかなんてものは分からない。ある意味ギャンブルをしているような気がするかもしれないが、好きなことは大事にすべきだと思う。中学生になると母に散々「部活をして何になる?」と言われるようになった。それを言われる意味が自分は本当に分からなかった。母は自分の人生のことを考えて言ってくれていたのは分かっていたが、必ず自分の人生にとって不可欠なものだったと思ってもらえるようにやっていくからと反論せずに黙っていた。保護者懇談のたびに担任の先生に「先生の方からも部活を辞めるように言ってください」と相談していたほどどうしても自分に部活を辞めて欲しかったのだろう。部活に膨大な時間を費やしてきて悔いはないし、自分の進みたい道へ直結したため辞めないで良かったと思っている。部活をやって競技を楽しんだこと以外に人間性を育ててもらったと思っているため、ただ部活をやっていたわけではないということを母には分かって欲しい。

 

 「勉強が本業なんだから頑張れ」という大人が嫌いだ。本業なんてものはそれぞれが決めるのである。勉強は今しかできないというのは分かるが、好きなものを否定していいとは思わない。メイクが好きな子、釣りが好きな子、ゴルフが好きな子。それぞれの人格を否定しているのと一緒であると自分は思う。好きなことを追求している日々より輝いているものはないと言っても過言ではない。勉強が1番大事なことだということに縛られずに、好きなことを好きだと胸を張って生きていける子どもが増えていくことを願っているし、自分は伝えていきたい。

らしさ

 自分のいとこはかなりのネガティブである。ある意味完璧主義者なのかもしれないが、自分が気にしないようなことばかりを気にして、勝手に気を落としていることが多い。「他人は他人」という割り切れる力がないのだ。人は「あなたらしくでいい」と言う。自分もそう思う。誰一人として同じ人間はいないし、同じようにできる人間はいない。その人自身が自然に生きているとらしさというものは発揮されると思うのだ。だから、自分自身のことを責めるのはよくないと思う。

 

 自分らしさ、自分のペースというのを考えて生きているとかなり楽に生きられる。周りを気にしないことがこれほども自分を楽にするのかと驚いたこともあった。もちろん周りの人間のことも視野に入れ、協調性を大事にしなければいけないことは言うまでもないし、それはまた別の話である。その人その人の個性というものがある。それを自分自身で殺してしまうようなことはしてはならない。しかし、らしさって何だと思っている人も中にはいる。自分は自分がどういった人間かとかどんな長所があるのかとおいうことをわざわざ考えたことがない。でも、らしく生きているとは思う。それはなぜか。「飾らず素直に生きている」からである。周りの人間にこう思われてそうだからこうするとか逆にこう思われたいからこうするというようなことが基本的に思わない。自分の中でできることを最大限に使って他人に喜んでもらいたいという気持ちはあるが、他人にどう思われていてもいいと思っている。

 

 らしさの見つけ方って意外と難しいかもしれない。「こんなことが個性?」と思うことがある。自分もネガティブだし腐っていた頃はそう思っていたことがあった。せっかく褒めてもらっても「そんなのみんな持っている。よってそんなものはらしさとは呼べない」と偉そうに返していた。自分の場合、自分が唯一無二の存在だなどと思うことなくとも元気に毎日楽しく暮らしていた。それは、周りと比べていなかったからだろうと今であれば思える。だから、らしさを考えるのは絶対やらなくてはいけないことだとは一概には言えない。自分というものを見失っていたり、自分自身に自信が持てない場合にはらしさについて考えてみるのもいいのではないかと思うのである。SNSで「私って何で生まれてきたんだろう。何でこんなに可愛くないのだろう」なんてことをつぶやく毎日より「可愛くないかもしれないけど、私は私だ」と思う毎日の方が何百倍いい。

 

 必ず、その人にしかない魅力はある。それが「らしさ」だ。それをわざわざ考えなくとも生きられる自分のような人もいれば、そうでない人もいる。らしさを自覚するのは難しいが、身近な人は絶対に分かっているはずであるため、聞いてみることを勧めたい。らしさを大事にして胸を張って生きていこう。

自己嫌悪になった過去

 基本ネガティブだが、そんな中でも前向きに生きている。「自分の持っている力で全力を尽くそう」と常に思っていて大事にしていることである。だから、自分にそこまでいい意味で期待をしていないため、自分のことをそこまで嫌いになることはない。そんな自分が自分のことをどうしようもないほどに嫌いになった過去について今日は話をしていきたいと思う。

 

 自己嫌悪になってしまった理由として、「他人に迷惑をかけているのが辛かったから」というのが最大級にある。事の発端は、高校の部活である。高2の5月に1つ上の先輩が引退した後、しばらく次に向けてやっていこうという前向きな気持ちにはなれなかった。先輩たちと部活をしてきた約4年がとても思い出深いし、先輩たちがいない部活は考えられなかったのだ。そして、これからはずっと先輩任せで自分のことだけを考えていればいい環境にいたのが、全体を見て引っ張っていかなければいけない立場になった。分かっていたことだったが、そういった現実を一気に突き付けられた気がしてどうすればいいか分からなくなった。でも、このことに関しては中1からずっと一緒に頑張ってきたたった1人の同級生と助け合っていけばいいと思っていたため、自己嫌悪になる理由にはならない。

 

 自分は、僭越ながらピッチャーをやらせてもらっていた。中1でソフトを始め、ピッチャーに強く憧れを抱き、先輩の2番手として投げさせてもらっていた。それも、これからは自分1人で投げていかないといけないということである。それが1番の不安要素だった。ソフトはピッチャーが9割責任だと思っているため、全ての責任は自分にあると勝手にチームの明暗が自分にかかっていると背負いこんでいたのだ。ピッチャーのことは同級生に相談することなんてできないし、そもそもしてはいけないと思っていた。自分の中で解決しなければいけないとずっと感じていた。でも、そういうことをしているといつか限界が来るのだ。先輩が引退して、追い込めば追い込むほどピッチングが悪くなる。そして、チームに迷惑をかけてしまう。そうなれば悪夢の悪循環の始まりである。高2~高3の間は帰り道よく泣いたものだ。そうなれば、同級生に心配をかけることになる。そして、同級生だってピッチャーの専門的なことは分からないのである。でも、泣いている同級生を放っておくことはできないということでだとは思うが、よく優しく話を聞いてくれた。「自分なんていない方がチームのため。もっと言えば、同級生のためだ」と思うようになった。でも、ソフトは好きだしととても葛藤した。後輩に申し訳ないという思いももちろんあったが、同級生に足を向けて寝られないほどに申し訳なさと感謝があった。自分なんかと比べものにならないほどにセンスがあって強いチームでも通用するような選手だっただけに余計罪悪感があった。何度も「迷惑しかかけないからやめろって言ってくれてもいい。やめてくれてもいい」と伝えていた。それでも、「最後まで一緒にやりたい」と言ってくれていた。嬉しかったが、その優しさに押し潰されそうになった時もあった。その言葉に甘えさせてもらい、約5年のソフト人生に幕を閉じたわけだが、たった一度だけ自分のことを嫌いになった頃があったということだった。

 

 泣きたくなくても涙が出る日々。どうあがいてもよくならないピッチング。それに伴い募る不安。これらが原因で自己嫌悪になったのだ。しかし、これらは自分で蒔いた種だ。ピッチャーをさせて欲しいと言い出したのも、続けようと決心したのも自分。誰のせいでもない。でも、このことがきっかけで責めすぎるのもよくないと思うようにもなった。助けて欲しい時は助けて欲しいと素直に言った方がいい。自分の場合、自分の世界で籠ってしまっていたから、より一層誰もそのことに気づかないし、その世界で自分で自分を刺して苦しんでいる構図ができてしまっていたのだ。それに今では気づくが、当時は分からなかった。同級生を苦しめているという現状が自分が苦しくなってこうなってしまっていた。反省している。自分自身の殻に閉じこもることはいかなる時でもしてはいけないと学んだ。

人生3度目の手術

 熱も出さない。転げて膝に擦り傷すら作らない。昔からいわゆる健康優良児だった。風邪をひくのも1年に1回あるかないかで、健康であることが自慢であるほどだった。しかし、手術は人生で3度経験したことがある。初めての手術は、あまり記憶のない小学1年生の7歳だった。なぜ手術したかというと、歯が1本多く歯茎にその歯が潜んでいて、本来生えてくる歯の邪魔をするということで除去することになった。小学生だったし、なぜ入院しなければいけないかことすら分かっていなかったように思う。それからというもの、手術とは無縁だった。2度目の手術はどこか体に異常が見られたのではない。18歳でレーシックをしたのだ。小学2年生の頃から学校の視力検査でBがついてしまうようになり、眼鏡をかけるようになった。中学生になるタイミングでコンタクトに移行しようとしたが、コンタクトが自分に合っておらず結局8歳~18歳の10年間は眼鏡をずっとかけて生活をしていた。レーシックをしようと決断したのには2つの理由がある。1つ目は、父が先にやっていたからだ。父も知人に勧められ決心しレーシックをしたところ、視力が戻りそれが維持されているようだったので、自分もさせてもらうことにした。2つ目の理由は、体育系の大学に進むことが決まったからである。大学では、実技の授業がある。水泳もやらなければいけない、柔道もやらなければいけない。これまでも眼鏡で体育やソフトをしてきたが、大学生になるタイミングでレーシックをして不便さを除去した方がいいという決断をしたのだった。

 

 そして、今回が3度目の手術。「右アキレス腱断裂縫合手術」というものだ。文字通り、断裂してしまったアキレス腱を縫い合わせるという手術だ。15年ぶりの入院・手術で緊張した。ここからは手術当日の話をしたいと思う。手術室まではストレッチャーという台に乗って移動した。仰向けで布にくるまれて身動きの取れない状況だった。手術室までストレッチャーを押してくれた看護師さんとはそこで別れ、お医者さんに引き継がれた。麻酔科医の先生たちがたくさんいた。手術をしてくれる主治医の先生はまだいなかった。22歳なのにかなり怖がった表情をしていたのだろう。かなり「落ち着いてくださいね」と声をかけてくれたような気がする。呼吸や脈拍を測る機械を体に貼り付けられ、点滴の針を左腕に刺された。注射が嫌いな自分は痛さを堪える声が漏れてしまった。麻酔科医の先生に「ごめんね」と謝られた。謝らないでくださいと心の中で思った。そして、名前を聞かれた後「今日手術する場所を教えてください」と言われたため、「右アキレス腱です」と返した。そこから酸素マスクをつけられ、酸素が送られた。そこで衝撃なのだが、自分の目から涙が出てきたのだ。自分でもなぜか分からなかった。点滴が怖いというのはあったが、手術が怖いという気持ちはぶっちゃけなかった。全身麻酔で知らない間に終わっていると思っていたからである。でも、涙が出てきた。それをそっと何も言わずに麻酔科医の先生は拭いてくれた。これが優しさなのだと思った。そして「眠くなるお薬入れていきますね」と言われ、頭がボーっとしてきて麻酔科医の先生が自分の左肩をポンと叩いてくれていたのだが、2回しか記憶がない。そこから眠りにつき、起きたら右脚にはギプスが巻かれ固定されていた。点滴も脈を測る機械も繋がったままだった。「え、もう終わったんですか?」と聞くと「終わりましたよ」とにこやかに答えてくれた。時空を飛んだ気がしたほどに、3時間くらいが自分の記憶からない。不思議な感覚だった。

 

 手術としてはこのように無事に終わった。しかし、自分の場合手術するまでに約3ヶ月という月日と、その間で起こった様々なことがある。それについてはまた別のブログで書こうと思っている。興味のある方はそちらを期待していただきたい。最後に、手術に携わっていただいた医療従事者の皆さんをはじめ全ての方々に感謝しかない。ありがとうございました。