その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

まずは「真似ぶ」ところから

 「学ぶ」という言葉は、「真似ぶ」という言葉からできているという話は有名な話であるだろう。学ぶにはまず誰かの真似をするところから始めなければいけない。自分もこの考え方には賛成である。アレンジは「加える」ものであって、土台に基礎基本がなければこの話は成立しない。しかし、真似ることを嫌う人間もいる。自分はそれは無茶な話だと思う。

 

 スポーツでも楽器を演奏するでもそうである。上達しようと思えば必ず「研究」をする。方法はYouTubeを見ることだって本を読むことだって何でもいいのである。自分も小学生の頃にサッカーのチームに入っている頃からそうであり、研究をしていた。蹴り方一つを取っても、「中村俊輔選手の蹴り方を真似しよう」と思ったところから始めた。それが自分の学びだと思っていた。中学生になれば「上野由岐子選手の投げ方を真似しよう」というところからピッチャーとしてソフトを始めている。そこから自分なりの動きや感覚を養っていったという流れである。いきなり「自分なりにやってみろ」と言われても戸惑ってしまう。先輩のバッティングフォームやピッチングフォームを見る時間というものがあったが、今思えばいい時間だったと思う。逆に自分たちが先輩の立場になった際にも、後輩にプレーを見てもらって何かしら盗んでもらう機会もあった。あれは我がチームながら全く強くはなかったが、いいことをしていたと思う。

 

 人は真似をすることで学び、自分色にコピーして落とし込んでいくことが本来なければいけないと思う。自分もそうしてきたし、後輩にも偉そうながらそうさせてきた。冷静に考えると、「武器も持たずに戦え」と言われているような感覚だ。それを平気で言う大人がいる。とても酷なことだと思った。昨年6月の教育実習での実習授業や研究授業をする上で「真似をするのではなく、オリジナルの授業を作れ」と言われていた。コピーをすることを許さない、意味の分からない指示だと思ってしまった。しかし、「この3週間何を見てきたんだ」と思った。授業参観を繰り返して教育実習の最後に授業をするのに、3週間で見てきたことを生かそうとすることも許されないのかと思っていた。そして、そのオリジナリティも講評の際にダメ出しを食らった。何が何だか分からなかった。だから、11月の教育実習でもそう言われることを覚悟していた。授業を1度しか見せていただけるタイミングがなく、本当に焦っていた。「どんな授業をしようか」「教材研究をする時間がない」と本当に考え込んでしまっていた。しかし、指導教官は「全く同じことをやってくれたらいいから」と一言言ってくださった。ホッとした。この一言で他のことを考える時間が増える。ありがたかった。そして、新たな発見だったが、「丸々コピーをした授業でも、授業者が違えば違う授業になる」ということである。おそらく、生徒たちも違う感情で授業を受けてくれていたのだろう。芸人さんたちが他の芸人さんのネタをパクっても、違うネタのように見えるというような感覚だろうか。それを知れただけでも、自分が思っていることが証明されたと気持ちよかった。

 

 天才でない限り真似をしないことには何も始められないと思っている。天才なんて一握りの人間だから、この方法が多くの人間が当てはまるだろう。何事も段階的に成長を求めていかなければいけない。突然成長することを求めるのは、人のことを全く考えられないのとイコールではないだろうか。「まずは真似をするところから」である。