その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

宝のある山ばかりを漁る人生は楽しい?

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「宝のある山ばかりを漁る人生は楽しい?」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 「どうなるかやってみたい」という思いでこの21年間生きてきました。「やってみたいけど、経済的な理由でできなかった」という方もいらっしゃると思うので、自分は非常に恵まれていると感じています。と同時に感謝もしております。宝のあると分かっている山を漁ることが自分はどうやら好きなようで、何かあるのだろうと分かっていることに対しては興味が湧かないし、気も乗りません。これも自分と同じような人もいれば自分と真逆な人もいるだろうし、人それぞれだと思います。それは単純に人生の楽しみ方が違うからです。何にワクワクして何にドキドキするかは人によって違うでしょう。

 

 これは才能を生かす道を選択するか、努力をしてでもやりたいことをやる道を選択するかという話に近いであろうと思います。自分は何に関しても努力が必要不可欠で、才能と呼べるものなんてほとんどない人間です。謙遜でも何でもないです。小学1年生からピアノを始めました。このピアノは自ら「やりたい」と言ったのではなく、母が「子どもにやらせたい習い事」としてやらせていた習い事です。でも、そのピアノが大嫌いで、ずっと辞めたいと思いながらピアノを続けていました。週1回のレッスンがとても苦痛で、自宅での練習時間は1日5分が当たり前でした。年に1度夏に行われる発表会にも本当は出たくなかったですが、嫌々出ていました。そのためには、人様の前で演奏するわけですから、それなりに練習しなければいけません。それでも1日1時間程の練習で発表会を乗り切っていました。熱心な方はおそらく1日何時間も練習をするでしょう。そんな感じでも結局6年間続けました。その6年の間で、感じていたことは、「ほとんど努力をしなくてもピアノはそこそこに弾ける」ということです。そう思っていると、母も「ピアノの才能がある」と褒めてくれました。ちなみに、母は才能があると過去に行ってくれたのは、ピアノに関してのことだけでした。ほとんど練習をしなくても発表会では何となく弾けてしまうし、「発表会に間に合わないかも」と不安になったこともありません。

 

 嫌いなことであるのなら、努力を要さず勝手にできてしまうことでも簡単に自分は捨てられるタイプなので、ピアノの道はありえませんでした。ピアノを弾き続けていたら今より楽ができていたかもしれません。あくまでも、音楽業界が楽な世界だということを言っているのではありません。自分は楽に宝を得られる山に興味はないので、現在も絶賛挑戦者をやっています。宝があるか分からないながらも、漁り続けていられる人生を歩んでいきたいと思っております。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「ネジが外れている人が結局おもしろい人」を予定しております。ではまた次回。