その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

人生の決定権を握るのはいつだってあなた

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「人生の決定権を握るのはいつだってあなた」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 今日は「当たり前。みんな分かっている」と言われるかもしれないテーマでお届けしたいと思いますが、本当の意味で分かっている人が実際どれくらいいるのでしょうか。親や育つ家庭以外全て自身で選んで人生を歩むわけです。そして、親や育つ家庭以外は誰のせいでもないし、誰の責任にもできません。たとえ、「何でこんな人生になったんだろう」「どこで道を間違えたのだろう」と悩み嘆いたとしても、自身が悪いのです。自分はよく今の人生にとても満足しているし、幸せだということを口にしています。そして、現在は保健体育教員になることを夢見て日々過ごしていますが、もし小学生の頃に夢見ていた「医者」を今更「あの時もっと勉強を頑張り続けていれば」「もしかしたら医者になれたのかもしれない」と後悔をしたとしても、それは全て自分が選んだことばかりなので誰かを責めることは本来できないはずです。他人のアドバイスを全て反映させてしまって、「〇〇のアドバイスのせいで」となってしまったり「〇〇が言っていたから」と他人のせいにしてしまう人はいませんか?自分はそういう人と出会ったことがありますが、「他人のせいばかりにして自身はどうなの?」と思っていました。過去のブログにも書いたことはありますが、他人のアドバイスを全て反映させないことが大事です。そして、他人のアドバイスを求めようとしたのも自身だということも忘れてはいけません。

 

 そして、「この道に進もう」と決めるのもそうですが、諦めるのも同様です。「まだ自身ならいける」と思うのか「別の道に進むべき」だと思うのか、これまた自身の問題です。「選ぶ」ということの裏には「捨てる」ということがある、人生はまさに「取捨選択」の繰り返しだと思っています。自分も幼少期、ありがたいことに親にたくさんの選択肢を用意してもらって、実際に取捨選択をしてきました。その道に進むと決めたのなら本気でやらなければいけないという考えがあるので、その道を極めていくためには勇気を出してたくさんの道を捨ててきました。「選ぶ」のも「捨てる」のも決めるのは全て自身なのです。

 

 いかがだったでしょうか。自身の人生に責任を持つって並大抵のことではないということが分かっていただけたのではないでしょうか。自身の人生のことなのに他人のせいにするなんて、冷静に考えると理にかなっていないということが分かると思います。だから、常に「人生の決定権は自身にある」ということを意識すべきだと思います。これから先どうしていくかも、これまでの後悔していることをどう塗り替えていくかも、そして「選ぶ」のも「捨てる」のも自身なのです。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「非行」を予定しております。ではまた次回。

 

 

継続は力なり

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「継続は力なり」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 座右の銘が「継続は力なり」だという人も多いのではないでしょうか。よく耳にするし、座右の銘にピッタリだと思って掲げる人が多いような気がするのですが、そう簡単なことではありません。このブログで自分は自分の長所や個性より、できないことや苦手なことについて書いていることがほとんどですが、自分は継続することが得意で周りの人間からも「続けることってそんな簡単なことじゃないからすごい」と言ってもらうことが多いです。でも、最初それを言われた時は「別に特別なことをしているわけではないのに」と思っていました。そう言われることが増えて、「自分の長所かもしれない」と思えるようになりました。

 

 確かに、同じことを同じように続けることは大変です。「素振り20回してみてください」と言われても大半の人ができると思いますが、「5年間素振り20回を日課にしてください」と言われるとこれはまた話が変わってきますよね?途中でやることがルーティーン化してきて刺激がないから、「辞めたい」という気持ちになってしまうのだと思います。例に挙げると以前もこのブログのテーマにもさせていただいた通り、専業主婦がそうです。毎日、洗濯・炊事・掃除・買い物…変化なく、ほとんどやることは同じです。そして、辞めたくても辞められません。「誰か専業主婦を代わって」と声を上げても、誰も代わってくれる人はいません。そう思うとまた専業主婦様様だと感謝の気持ちが絶えません。そして、自分は続けた者にしか分からないことや見えない景色があると思っています。何事もコツコツとやり続け、たとえ変化しない日々に飽きてきても「我慢の時間」だと思い辞めずに続けてきました。

 

 継続してみて才能が開花しなかったり、継続しても栄光が見えなかったりするのならこの論は通用しないと思うので、別に続けることだけが正義だとは思っていません。ただ、自分は才能がなく不器用で時間をかけないと目標達成の兆しが見えないタイプなので、「継続することは力になる」と何度も実感してきたので、ぜひ皆さんにも実践して欲しいと思っています。それでも、「毎日同じことをするのは酷だ」という方もいらっしゃると思うので、そういう方は自身の趣味やストレス発散する日を上手く作って、メリハリをつけて目標達成に励んでいただきたいと思います。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「人生の決定権を握るのはいつだってあなた」を予定しております。ではまた次回。

ビリ集団は恥ずかしい?

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「ビリ集団は恥ずかしい?」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 いきなりですが、自分は何に関しても世間の言う「ビリ集団」で過ごしてきた人間です。だからといって暗くなったり、凹んだりしていたわけでもないし今も尚そうです。毎日とても楽しく過ごしています。それも、誰よりも幸せな毎日を。

 

 まずそもそも、自分は数値化されるものに興味がないのです。数値化されるものにそこまで価値があると思えない人間です。だから仮に「あなたはビリ集団に所属している」と言われたとしても、特に何も思わず「ああそうですか」としかなりません。学校のテストで下から数えた方が早い順位を取っても、部活のチームが弱小とされていたとしても自分が重視しているところはそこではなかったので、そこを他人に主張されたところで自分からすると、何も効果はありませんでした。よくブログを読んでくださって方はご存知だと思いますが、中学受験が終わり無事合格した直後から部活優先の生活になり、学校のテストの成績も良くなかったです。だから親に「勉強しないとこのままずっと下の方だよ」と言われ続けていましたが、学校が大好きだし公立の中学校へ転校するのも嫌だったので、自分は退学させられない程度にやっていれば良いかと考えていたので、右から左でした。部活も「そんな弱いチームなら辞めたら?」と何度も何度も言われていましたが、「試合に勝ちたい」は二の次で、楽しかったので辞める気は一切ありませんでした。大学受験の時もそうでした。「レベルが高いからきっと合格できたとしてもビリだよ」と言われていましたが、「別にそれで良い。ビリでも良いからやりたいことをやりたい」と言いました。現に、きっとビリなのですが自分の実力アップに必要なスキルを身に付けさせてくれる大学なので、受験を決めて正解だったと思っています。

 

 「ビリ集団」ってやはり恥ずかしいと思いますか?自分は全くそうは思いません。例え世間からビリだとされたとしても、結局やりたいことをやれてたら良いと思いませんか?それで、楽しく幸せな毎日を過ごせるのなら、何も言うことないのではないでしょうか。「ビリ集団にいる」と言われたとしても、そこで折れるのではなく、「でも良い。今とても幸せだから」と言える選択ができるとベストですよね。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「継続は力なり」を予定しております。ではまた次回。

 

 

好きだと言ってくれる人は100%ではないが嫌いだと言ってくる人も100%ではない

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「好きだと言ってくれる人が100%ではないが嫌いだと言ってくる人も100%ではない」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 「あの人にどう思われてるのだろう」「自分は好きだけど嫌われてるのかも」と考えたことはありませんか?自分はとてもケンカをするのが面倒くさいという性格なので、他人と波風立てず中学2年生までは生きてきました。自分からケンカを売ったことはないはずです。だから、過去に他人に好かれているのか嫌われているのか気になったことは山ほどあったけど、結局「どうでもいい」に収まっていたことが多かったです。そもそも他人の目を気にしないタイプなので、結論自分が好きな人に好きだと思われていれば良いと思っていました。

 

 皆さんもよく分かっていると思いますが、誰にでも100%好かれる人間なんて存在しません。しかし、それを昔は追い求めていました。「クラスのみんなにも、学校のみんなにも、先生たちにも、家族にも…みんなに好かれる人間って素晴らしい!」と単純に思い、夢見ていました。もちろんですが、後に壁にぶち当たりました。「嫌い」と面と向かって言ってきた人間と出会いました。そんな経験初めてだったので正直驚きました。「あなたのことは嫌いだからこっち側が嫌いだと感じるところを言うから直して欲しい。その代わりにこっち側の嫌いだと感じるところを指摘して良い」と本当に挑戦状のような手紙をもらいました。直接話すのも嫌だったようで、ずっと手紙のやり取りが続きました。近しい人だったので、良好な関係に変えていきたいと思っていました。だから、自分もかなり必死で手紙のやり取りをしていました。でもある程度の距離感なら関係は良好でしたが、距離感が近くなるとやはり合わない人間同士だったみたいで自分は残念でした。でも、その人に嫌われていてもその他の人間にまでも嫌われているわけではないと、周りの仲良くしてくれる友人のおかげで自分はポジディブに考えることができていました。みんなに好かれることは不可能であることと反対に、みんなに嫌われることも不可能だということに気づきました。

 

 1人の人間に「嫌い」だと言われても、みんなに嫌われたと思うのは絶対に違います。必ず「あなたのことが好き」だと言ってくれる人がいます。100%みんなに嫌われることも相当難しいことだと思います。好きだと言ってくれる人50%、嫌いだと言ってくる人50%。これが現実の比率かもしれませんね。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「ビリ集団は恥ずかしい?」を予定しております。ではまた次回。

 

実年齢≠精神年齢ってどうなの?

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「実年齢≠精神年齢ってどうなの?」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 今日のお話は簡単に言うと「身体と心」のお話です。保健体育教員を目指す毎日で、「心身は一体である」ということは耳にたこができるほど耳にしていて、それは「身体が健康であれば心も健康、逆も然り」という身体と心は切っても切り離せない関係であるということです。そこで、自分は考えたのですが、身体が成長するのなら心も同じように成長していくものなのではないかと思うのです。自分が気になるのは、身体だけ成長して心が成長していない人間です。皆さんもそのような人に出会ったことはありませんか?ぶっちゃけた話、身体はご飯をある程度食べてある程度睡眠を取っていると勝手に成長していくと思っています。しかし、心はそうはいかないと思います。たくさんのものを見て聞いて、他人と触れ合わなければ難しいでしょう。

 

 そこで最も大切なことが「親の協力」だと思います。自分は小さくて将来覚えていないかもしれないと思っても小さい頃から日本全国いろいろなところに旅行へ連れて行ってくれたり、習い事をたくさんさせてくれたりした親に感謝しています。そのおかげでたくさんの経験ができたし、目には見えないけど自分の血となり肉となっていると信じています。やはり親の協力がなければできていなかったことばかりなので、大前提として1番身近な存在である親の協力なくしては心の成長はないと思っています。

 

 やはり実年齢=精神年齢であるべきです。家の中でじっとしていたり、机に向かっているだけでは心の成長はないし、そして親の協力がなくては実現しないことだとも思っています。豊かな心に親は育てたいはずだし、子どもも豊かな心を持っていたいと思うと思います。無意識に他人を傷つけてしまったり、大人な考えができなかったりする人間には誰もなりたくないと思います。身体だけがどんどん成長して心だけが置き去りにされて最終的に苦しむのは間違いなく子どもです。親御さんに言えることは、子どもがやりたいと言っていることはできるだけ見守って欲しいということです。子どもが部活をやりたいと言っても勉強時間がなくなるといってやらせないのではなく、人間関係で悩んだりして失敗体験、試合で勝ったり作品が入賞されたりして成功体験をさせてあげることが大事だと思います。そして小さい頃からたくさんの経験を積ませてとにかく良いことも悪いことも味わわせてあげて欲しいと思います。その経験が必ずその子どもの糧になることでしょう。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「好きだと言ってくれる人が100%ではないが嫌いだと言ってくる人も100%ではない」を予定しております。ではまた次回。

 

挑戦する人を攻撃する人がいる理由

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「ビリ集団は恥ずかしい?」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 挑戦する人を「そんなのあなたにはできるわけがない」「なぜやろうと思った?」と鼻で笑う人がいつの時代もある程度の人数います。自分も周りの人間に笑われたことも少ないですがあります。「わざわざ何でそんな茨の道を選ぶんだ?」と言われたことがあります。才能とセンスがない分野に挑戦したいと自分が声を上げたからそれを邪魔しようとする人間が現れたわけですが、自分はその時「他人に何を言われても貫く」と決めていたので、何とも思いませんでしたが、「なぜこういう人たちっていなくならないのだろう」と考えたことがあります。

 

 理由は、単純に「夢があることが羨ましいから」以外に2つあると思っていて、まず「自身もその夢を追いかけたいが、勇気が出ないから」だと思います。自身の才能や環境、状況等を考慮して夢を掲げると思いますが、自分はありがたいことに両親に「好きなことをやりなさい」と言ってもらえる環境で育ってきて、今も尚それは続けさせてくれています。だから、その点では苦労なしかもしれませんが、母に「得意なことを生かした職業を選ばない?」と言われ続けていた時があったので、それを説得するのは少し大変でした。自分ももちろん不安で、目指したいと少し頭に過ぎったことはあったけど、自分でも見て見ぬふりをしてきた夢を追いかけると決めた勇気をあの頃出せた自分は珍しく褒めたいと思います。そして、その後に「その夢を叶えられると自身が後悔するから」だと思います。自分の先程の話でいくと、もしずっとスポーツ関係の職業に就くことを見て見ぬふりをしていて、近い存在の人がその職業に就いていたとしたらやはり後悔すると思います。「その夢を叶えられるとその夢を諦めたこっちの立場がない」といった感じです。

 

 もちろんどちらの気持ちも分かりますが、それが理由で攻撃して良いわけではありません。やはり「勇気」と「後悔しない選択」は大事だと思います。勇気を出すか出さないかで大きく人生は変わってきます。そして、挑戦する人を攻撃する暇があるのなら、自身も勇気を出せば良いし、後悔しない選択をすべきです。まずは自身の人生を見つめてください。このブログでも何度か言っていると思いますが、挑戦する人を攻撃したところで何も始まりません。結局、自身が行動しなければなりません。挑戦する人を気持ち良く応援できる人になりましょう。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「実年齢≠精神年齢ってどうなの?」を予定しております。ではまた次回。

 

方向転換する勇気

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「方向転換する勇気」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 今抱いている夢や目標がある方に向けてお話する形になると思いますが、もし今何もやりたいことがなくて困っている状態であるという方にも夢や目標ができた時のために参考になるように書いていきたいのですが、皆さん今どんな夢や目標がありますか?夢や目標がなくてもどういう夢や目標を持ちたいと今考えていますか?100人いれば100人全く同じという人は存在せず、必ず100人それぞれそれぞれの夢や目標を持っていると思いますが、それがもしかしたら「5年後、10年後変わっているかもしれない」と考えたことはありますか?小さい頃に抱いた夢や目標なら尚更そんな先のことまで考えないと思います。もちろん小さい頃に抱いた夢や目標を15年後、20年後に叶える人もたくさんいると思いますが、変わってしまうこともあるということは忘れてはいけないと思います。

 

 自分も小さい頃からたくさん夢や目標を抱く子どもでした。「テストで100点を量産する」「サッカーでレギュラーになる」「将来は医者になる」と小さなものから大きなものまで様々です。小学3年生の頃に「医者になりたい」と思い、これから先も医者を目指して生きていく人生になると確信していました。小学生の卒業アルバムにも「医者になりたい」と書いています。しかし、中高一貫校の中学生になり「学校のテストの成績」というものさしでしか医者になれるか否かを測れない当時の自分は「これは難しいかもしれない」と入学後最初の中間テストで思いました。周りにたくさん自分なんかより学校の勉強ができる人がいたわけです。即座にシフトチェンジをしなければいけないと思いましたが、医者になるために生きていく人生を描き、きっとなれると確信までしていた「医者になりたい」という夢であり目標をそう簡単に捨てることはできませんでした。そして、中学1年生、2年生の時に少し興味を持った英語を使った仕事を考え、「英語教師になろう」とふんわりと思ってはいましたが、このタイミングでもシフトチェンジできていませんでした。ブログをよく読んでくださっている方はよくご存知だと思いますが、中学3年生で出会った後に恩師となる先生と出会うわけです。その先生との出会いがなければ今の自分はないし、大きくシフトチェンジすることができなかったです。つまり、英語に少し興味を持ったと言っても人生を決める選択をしているという意識も覚悟もなかったのだと今考えるとそう思います。

 

 「医者になりたい」から「保健体育教員になりたい」に大きく方向転換できたことは本当に良かったと思っています。「この道は違うかも」と思ったらすぐに方向転換することを考えるべきです。新しい道を歩むことは相当勇気のいることです。実際自分もそうでした。でも、覚悟を決めて勇気を出してみると方向転換する前の道で見えなかったものが見えるようになったり、「勇気を出して良かった」と思えるかもしれません。「やらずに後悔よりやって後悔」の言葉通りだと思います。方向転換する勇気をぜひ持ってください。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「挑戦する人を攻撃する人がいる理由」を予定しております。ではまた次回。