その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

結果論で物事を語る人

 「~な人」の話を少し前のブログでもしているため、またそのシリーズかと思われるかもしれないが、そこそこ真面目な話をしているということでお付き合い願いたい。何かに挑戦すればどんな形かは様々でも結果が必ず出る。今、このブログを書いているとランニングをしている大人の方が走り去っていくのが見えたが、あの方が「今日は5㎞を完走する」と決めていてそれを達成できるか否かで結果は変わってくる。料理が好きな方が「好きな人の誕生日までにケーキを作れるようになる」と目標を立て、それが実現するかどうかで結果が変わってくる。でも、その結果が出てから一喜一憂することが多いがそれってどうなのだろうと自分は思うのである。

 

 「5㎞完走できたから今日は上出来だ」「クリスマスケーキ作れるようになったからOK」と言っているようではいけないのではないか。でも、自分もこんなことに気づけるようになったのは高校生くらいだった気がする。たとえ5㎞を完走できたとしても「一定のペースで走れたか?」「完走したが体力的にギリギリでゴールできたのではないか?」と考えることが必要だと自分は考える。分かりやすいもので言うと、受験。自分は大学受験はAO入試しか経験しておらず、いわゆる筆記テストを受けていない。だから、筆記テストを経験した中学受験の話をさせていただく。結果は合格したが、成績を開示した際に点数が全く思うように取れていなかったことを覚えている。「え?こんな点数で逆になぜ受かったの?」という点数だった。今思えば、無事合格できたのはいいものの入学後が大変になるのはこの時点で分かっていたのかもしれない。それはさておき、合格通知をもらい意気揚々としていた。結果さえ出ればそれで満足だったのだ。部活で結果が出なくてもいい試合はあったし、結果が出てもモヤモヤの残る試合もあった。フォアボールの連続のおかげで打てなくても勝てた試合もあったが、それは自分たちの力で手に入れた勝利でないと思っていたし、実際そうだろう。

 

 「これは結果論だけど…」という言葉をよく耳にする。結果を見てから過程を嘆いたり誇りに思うことは、もちろん人の勝手だが自分は言う必要あるのかと思ってしまう。ついでに言うと結果オーライという言葉もあまり好ましくない。結果というのは一瞬の断片的なものであるため、それを中心にして話をしても説得力がないと思ってしまうのである。結果は結果で受け止めればいいが、過程がやはり最も大事なものだと思う。過程は断片的なものではないし、簡単には語れない。いいところも悪いところもあったと振り返っていれば、様々なことが思い出される。過程を大事にできる人でありたい。