その辺にいる社会人2年生(24)

社会人2年目のブログです。

学びの転がるタイミング

 子どもの頃は何とも思わなかったが、ある程度大きくなってから学びの機会を与えてもらえることはとても貴重なことであると感じている。学びたければ自ら学んで、その選択も自ら行わなければいけないからだ。「何事も勉強だ」といつからか思うようになった。嫌なことや不快な経験は誰しも避けて通りたいものである。だから、無理やり脳内変換して勉強したと思えないとモヤモヤして終わるだけになってしまうため、そう思うようになったのだろう。でも、それはあながち間違ってはいないとも思うのだ。

 

 中学生の頃、平和主義の自分にもケンカをした経験がある。平和主義とは言っても、意思を絶対に曲げない頑固さがあるため、腑に落ちないことを言ってくる人は絶対に逃がさない。それでケンカになることが多かった。人間関係が原因のケンカだったが、それも今ではいい勉強になったと思っている。言い合いにもなって散々嫌なことも言われたが、これが勉強になったと思えていることが不思議でたまらなかった。

 

 この間、教育実習があった。怪我をした上にたくさん怒られて指導されたことはこのブログでひたすら書いているため分かってくださっている方も多いと思うが、結局勉強になっていい経験をさせてもらえて、再出発のきっかけになったとも思っている。何でそんなことが思えているのか不思議でならないと言われることも多いのだが、自分はいい子でも何でもなくただそういうマイナスな気持ちになったタイミングが学びチャンスなのだろうとも思っているだけなのである。そう思わないともったいないという自分のただの言い訳かもしれない。

 

 部活をしている時だってそうだった。もちろん勝ったり賞状がもらえたりすることは嬉しいし誇らしい。でも、学びがあるのは確実に負けた時だった。勝った時というのは、意外と振り返らない。「あのプレーはよかった」「あれがあったから勝てた」と仲間同士で褒め合う。そういったことはよくあった。勝った試合について反省することはあまりない。全てが完璧で勝てた試合なんてないのにである。だから、失敗やしくじりは大事にしなければいけないと思うのである。学べるチャンスなのだ。

 

 勇気を持って挑戦しよう、失敗を恐れないで失敗を踏み台にしてステップアップしようというのはそういったことである。学んだタイミングを考えてみると、常に気持ちが凹んだり沈んだりしている時だということが自分の経験からは言えると思った。誰しもそうなのかは分からないが、自分はそうだった。悪いことをしてしまって、怒られるのと怒られないのとでは今後の人生が全く違ってくるだろう。当然、怒られる方が勉強になる。だから、怒ってくれる存在は大事で怒られているうちが華だとも言われるのだろうと自分は解釈している。マイナスの気持ちが生じた時、それが成長できるチャンス。無駄にせず、成長していきたいと思う。