その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

他人に必要とされる幸福感

  皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「他人に必要とされる幸福感」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 「ここにいても良いのだ」「生きていて良いのだ」と思えることが最も人として嬉しいことだと自分は思うのですが、皆様はどう思われるでしょうか。少なくとも自分は21年間生きてきてそう思います。それを最初に教えなければいけないのは、紛れもなく親だとも思います。例えば、家のお手伝いを子どもにしてもらって終わった際には必ず「ありがとう。〇〇のおかげで早く終わった」とか「本当に助かった」と存在意義を示すような言葉がけが絶対的に必要で、それを頻繁に行わなければいけないのは親です。自分の母は「あなたを産んで良かった」「今がとても幸せだ」といったことを今でも言葉で伝えてくれます。とても嬉しいし、何があっても親に捨てられない自信があるし、守ってくれるだろうという安心感もあります。何もしなくとも子どもというのは親に大事にされる存在であると思っているからこそ、自分は親は自分が今を楽しく生きていることを喜んでくれているとも信じられるのです。それを教えてくれたのはやはり親であると思える経験を自分はしています。だから、自分は家族にとって必要な存在のだと親のおかげで思えているので、自殺を考えたことも家出をしたこともありません。

 

 家族だけでなく、学校という組織も同じことです。部活動でも他人に必要とされる幸福感を味わわせてもらえました。ある日、自分が大学の説明会に行く日と練習試合が被ってしまっていて、練習試合が決まるより大学の説明会に応募した日の方が早かったので、その日は大学の説明会を優先しました。後日、練習試合で負けてしまったことを聞かされました。市内でビリだと言われてもおかしくないほどの弱小チームだったので、「また負けたのか」くらいで聞いていたのですが、「やっぱりいてくれないと困る」といったことを言われたのです。お世辞かまたは社交辞令なのかもしれませんが、そんなのはどうでも良く、素直に嬉しかったのです。自分で自分の存在している意味を分るというのは自分も難しいと思いますが、他人にそう言ってもらえることで存在意義をはっきりと分からせてくれたことが非常に喜ばしいことでした。

 

 誰からも必要とされていないとなると、どんな人間でもきっと気持ちが沈んでしまいます。でも、必要とされない人間もいません。なぜ誰からも必要とされていないと思ってしまう人がいるのか。それは、周りの人間が「あなたは必要な存在です」と伝えることをサボっているだけです。特に親です。幼少期から親が伝えることを怠らないようにすることが大事だと思います。他人に必要とされる幸福感を感じられる方が増えますよう祈っております。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「謙虚に生きる」を予定しております。ではまた次回。