その辺にいる社会人3年生(24)

社会人2年目のブログです。

熱くなりすぎて空回り

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「熱くなりすぎて空回り」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 自分の短所は「熱くなりすぎて周りが見えなくなる」ところです。不器用だから、周りの人間より必死に物事と向き合うし絶対に手を抜いたら周りの人間に置いていかれるという気持ちが強く、すぐ周りが見えなくなってしまうところが自分の悪いところです。しかし、それが自分の短所であることに全く気づいていませんでした。それを気づかせてくれたのが自分の友人でした。

 

 このブログを開設した頃に中学3年生の時に、中学校へ入学してから初めてクラス長になったという話を書いたと思うのですが、「本当の自分をさらけ出そう」と決意して息巻いている時だったので、「クラスをまとめて引っ張っていかなければならない」と気合いも入っていました。日頃から担任の先生(後の恩師)を助けるべきだとも思っていたし、学校行事では絶対先頭に立って指揮を執っていかなければならないとも思っていたので、客観的に見ると常に熱かったんだと思います。自分の感覚的には熱いという意識もなければ、熱いということが悪いことだとも思っていませんでした。でも、先程も言った通り「目を覚ませ」と言わんばかりに、バケツに組んだ水をぶっかけてくれたのが、友人でした。自分にとっても初めての経験でしたが、自分の存在がないものだと思い、友人が自分の悪口を言っていて、それを自分が直接聞いてしまいました。自分も衝撃的すぎて、1日2日関わるのが怖くなり、会話すらしていませんでした。でも、絶対に元の関係に戻りたいので恩師の力も借りて、話しをする場を設けました。その時に「正直熱すぎてついていくのがしんどい」と言われました。だから、1人で自己満足で熱くなって後ろを見ると、誰もついてきていなかったということです。それに気づけていなかったので、「なぜ悪口を言ったのか」より「気づかせてくれてありがとう」と思えました。そして、無事に関係を修復することができました。

 

 自分は今でも他人に熱い人間だと言われるし、自分でも自覚しています。熱いことは悪いと思っていないです。でも、周りが見えなくなって空回りすることが1番いけないことだということを学んだので、気をつけています。自分と同じような方がもしもいらっしゃったら、周りを見ることを忘れないように一緒に意識していきましょう。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「油断できる日は来ない」を予定しております。ではまた次回。

 

嫌われるかもしれないリスクを背負う

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「嫌われるかもしれないリスクを背負う」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 もしあなたの友人があまり良くないと思うようなことや犯罪をしていたらどうしますか?そのまま見過ごしたり、同調したりしますか?やはり「友人なら常に味方でいるべき」だと思っている正義感のはき違いをしている人と何人も出会ったことがあります。その気持ちも分からないでもないですが、完全に間違っています。

 

 自分が小学6年生のある土曜日に小学校の音楽会がありました。そして、自分は当時中学受験を考えていて土曜日にも塾で勉強をしていました。その音楽会は午前中で終わる予定でしたが、学校行事があって疲れているだろうという甘い考えで、午後からの塾を休むつもりで塾にも連絡をしていました。その上、土曜日に友達と遊べることなんてそうそうないということで、友達と遊ぶ約束までしていました。でも、音楽会の3日前ほどに一緒に中学受験まで同じ塾に通って頑張っていた親友に「音楽会の後の塾どうする?」と聞かれて、「行かない。友達と遊ぶ」と答えると、「受験まであと3ヶ月。塾に行くべきだ」と自分のことを叱ってくれました。ラストスパートだと言うのにも関わらず、自分は勉強へのモチベーションはあまり高くなかったのかははっきり覚えていませんが、遊びを優先したかったのは事実でしょう。「遊んでいる場合ではない」と言ってくれたのに、結局自分は友達と遊んで塾は休みました。今思えば、あれだけ自分のことを考えて言ってくれていたのに申し訳なかったと思うばかりです。親友だし、嫌われてしまったらどうしようと思ってくれていたけど、「最後まで一緒に頑張りたかった」と言ってくれたのを聞いて、嫌われるかもしれないリスクを背負って勇気を出して言ってくれたことに感激しました。

 

 友人でも家族でも先生でもそうだと思います。大事な人だと思えば思うほどほっとけないし、嫌われるかもしれないリスクを背負ってでも、注意したり叱ったりアドバイスをするべきだと思います。もしそこで嫌いになってしまったり嫌われたりしたら、それだけの関係だったと思うしかないでしょう。残念ながら、相手にとって自身はそこまで大事な人だと思われていなかったということです。そこで嫌われてしまったと終わるのも個人の自由ですが、関係を修復しようとするのも個人の自由です。嫌われるかもしれないリスクを背負って、ポジディブな話以外も話せるようになるのが理想だと思っています。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「熱くなりすぎて空回り」を予定しております。ではまた次回。

 

人を笑顔にすることの素晴らしさ

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「人を笑顔にすることの素晴らしさ」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 今日のテーマは大きな自分の人生のテーマだったりするのですが、人を笑顔にするって本当に素晴らしいことだと思いませんか?突然ですが、自分はおもしろい人間になりたいです。「自分がいることで笑顔になってくれる人が増えてくれたら良い」。そんな思いで毎日過ごしています。人それぞれ毎日起こることも、それによって喜んだり悲しんだり本当に様々です。でも、自分と共に同じ時間を過ごしてくれている時くらいは嫌なことも辛いことも忘れて、笑顔になってくれたら最高です。

 

 そして、自分が常にお手本としているのが「お笑い芸人」さんです。何千、何万人もの人たちを笑顔にしているなんて本当に頭が上がらないし、感心します。ずっとおもしろいことを考えて、「どうすれば笑ってもらえるのか」「どんな笑いが今人気をよぶと思うか」と笑いを追求していることが心からすごいと思います。自分は昔からおもしろい動きやギャグをする子どもでした。自分が笑かそうとすると周りの人間が自分が思った通りに笑ってくれる快感が昔から好きなのです。お笑い芸人さんのするギャグのマネをしてみたり、漫才のネタを覚えてみたり今までたくさんしてきましたが、もちろんプロのお笑い芸人さんより上手くできるわけないし、本当に難しいと思い続けています。そんな自分もお笑い芸人さんからたくさんの笑いを提供してもらっている日々を送っています。だから、お笑い芸人さんはこの世にいなくてはならない存在だと思っています。

 

 「笑う」って本当に素敵なことだと思います。自分にとって笑うことは日常に不可欠なことです。笑うことが増えれば確実に楽しい雰囲気も広がる思っているからです。昔も今もお手本にしているお笑い芸人さんに改めて人を笑顔にすることの素晴らしさを気づかせてもらいました。「笑うことが好き」という気持ちが元々ありましたが、お笑い芸人さんを見て自分もささやかながら周りの人間を笑顔にしたいと、より一層思うようになりました。自分は人を笑顔にすることを考えて、おもしろいことを追求しているお笑い芸人さんが大好きだし、お笑い芸人さんのように人を笑顔にすることをこれからも常に考えていきたいです。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「嫌われるかもしれないリスクを背負う」を予定しております。ではまた次回。 

 

笑われるほどの大きな夢を

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「笑われるほどの大きな夢を」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 「身の程知らず」「身の程を弁えろ」と言われた経験はありませんか?自分は常に実力からは他人が考えられないような夢を抱くので、その度に言われてきました。子どもの頃って何も分かっていないので、どのような進路でなければいけないのか、どうすればその夢を叶えられるのかを考えることなく、とにかくやりたいことや興味のあることを生かした職業に就きたいとぼんやりと考えただけで、口にしてしまうと思います。誰でもそうなのかと言われれば分かりませんが、自分はそうでした。「歌手になりたい」「医者になりたい」「ゲームクリエイターになりたい」と言われると「そんなすごい職業に就けるのはひと握りの人間だけ」といつも言われてきました。「そんなの叶えられない」と笑われてきました。確かに、その頃はなぜそんなことを言われなければならないのか分かりませんでした。昔は自分に根拠のない自信もあったし、「そのすごい職業に就けるひと握りかもしれないじゃないか」とも思っていたかもしれません。でも今思えば、そういうことを言われることに挑戦した方が挑戦のしがいがあると思えます。これは性格かもしれませんが、笑われるような大きな夢を抱いている方が達成できた時の達成感も大きいと思えると思っているので、笑われたとしても決して諦めたくないし後悔したくないです。

 

 今、保健体育教員を目指していてまさに「夢の途中」ですが、これまた笑われました。確かに運動神経はお世辞にも良いとは言えないし、不器用で飲みこみも遅いので「本当に大丈夫?」と思うのは分かります。でも自分は笑われようが貶されようが関係ありません。一度きりの人生せっかくなら少し手を伸ばせば叶えられそうな夢より、必死に本気で目指さなければ叶えられない夢を抱くべきなのではないかと思います。もちろん考えは人それぞれです。できそうなことを確実に達成していくのももちろん素敵なことだと思います。自分は「そんなのできるわけない」と言われるような、笑われるような夢を達成した時を想像して、「あの頃自分を信じて良かった」と思いたいし、もし自分の思い通りにならなくても「叶えられなかった現実をしっかりと自分の目で見れて良かった」と思えるので、どうせなら大きな夢を持っていたいのです。これからも、大きな夢に向かって努力していきたいと思います。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「人を笑顔にすることの素晴らしさ」を予定しております。ではまた次回。

 

 

他人の感じる喜びが自分の喜び

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「他人の感じる喜びが自分の喜び」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 突然ですが、自分は他人が嬉しそうな顔を見て自分も嬉しいと感じるタイプです。もちろん綺麗事でも良い人ぶっているわけでもありません。心の底から思っていることです。いつの日からか他人のことをよく考えるようになりました。おそらく推測ですがそれは自己中心的な考え方をしなくなった頃からだと思っています。自分が何かをしてもらってそれを喜びと感じることがほとんどでしたが、今では全く違うと自分の中で感じています。

 

 大学生になって初めてアルバイトをして、一応「働くいてお金を稼ぐ」ということを覚えました。それで初めてもらった給料で父と母にお揃いのアクセサリーをプレゼントしました。「自分で稼いだお金は全部自分で使いなさい」と言われましたが、喜んでくれて嬉しそうにしてくれている様子を見て、自分は本当に幸せでした。初めて自分が稼いだお金で今までで1番お世話になった父と母にプレゼントできたことが本当に嬉しかったです。小学生の頃のの自分なら「自分の使えるお金が減ってしまった」「自分には何も残らない」と考えていたかもしれません。でも今は、喜んでくれた父と母の笑顔が嬉しいと感じるようになりました。

 

 もちろん他人の感じる喜びが自身の喜びだと感じるのは「難しい」「偽善者だ」と思う方もいらっしゃると思います。だから、「こういう考えをして欲しい」「こう考えるのが偉い」と思っているわけではありません。例えば自分はサプライズをされる側は苦手です。どうリアクションすれば良いか分からなくってしまいます。もちろん嬉しいとは感じるのですが、絶対的に家族や友人にサプライズを考えて実行する方が好きです。驚いた後に喜んでくれる笑顔が見たいと思うのだと思います。常に自分の大事な人たちには笑顔でいて欲しいと思うので、喜んでくれることをしたいと思うのかもしれません。このブログで触れたかどうか忘れてしまいましたが、とにかく自分は人が好きだし、今の自分があるのは今まで関わってくれた人たちのおかげだと心の底から思っているので、これからも大事な人たちが笑顔になってくれることをしたいと思っています。大事な人たちが喜んでくれるプラス自分も嬉しいと感じるなら、こんな一石二鳥なことはないと思います。自己満かもしれませんが、大事な人たちに少しずつ恩返しをしていきたいです。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「笑われるほどの大きな夢を」を予定しております。ではまた次回。

 

時間は無限であるようで有限

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「時間は無限であるようで有限」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 時間って無限にあるものだと思っている人はいませんか?今の時代人生80年と言われていますが、自分はきっと実際80歳になった時「いろいろあったけどあっという間だった」と言っているのだろうと思っています。そして、振り返った時に「充実していた」と思いたいです。だから、時間は無限だと思わないようにすることを心がけています。

 

 自分は中高一貫校で中学時代・高校時代を過ごしました。公立中学校へ通っていれば高校受験があり、机を並べて生活する友人も変わるという変化がありますが、自分にはそれがなくほぼ変わらぬ毎日が詰まった6年間を過ごしました。それがマンネリ化して「学校に行くのがつまらない」「早く高校の卒業式がしたい」と思わないように意識していました。結果、毎日が楽しく、学校が大好きで、高校の卒業式を迎えた日は「6年間一緒に過ごしてきた友人と離れたくない」「充実した6年間を過ごせた」と思える6年間を過ごすことができました。それは苦楽を共にした友人とお世話になった先生のおかげだと思い、とても感謝しています。そして、6年間とこれは有限な時間だから分かりやすいと思いますが、人生という大きな単位で考えるとどうしても無限な時間だと思ってしまい、イメージしづらいのはよく分かります。ただ、時間は無限にあると思い、何でもない時間をダラダラと過ごしてしまうことは勧められません。夢や目標を達成することと似ているかもしれませんが、自身で時間は有限であるということを常に頭において、自身でゴールを決めておくべきです。自分は高校卒業までに英検2級に合格したいと思っていたので、高校3年間で準2級と2級に合格することを目標にしていました。英検2級を取得しなければいけないという法律はないしいつ取得するのかも人それぞれだけど、自分は自分でそう決めたので有限な時間の中で自分で自分にプレッシャーを与えていました。

 

 時間はいくらでもあると思いがちですが、実際そうでもないのです。知らず知らずのうちに時間は制限されています。人生を大きく区切ると学生時代、年齢、独身時代、結婚、妊娠、老後…という風になっていると思っています。気づけば30歳になってしまったり気づけば孫ができている歳になっていたり、「気づけば」とならないように充実した人生を送るべきだと思っています。いつ振り返っても結果、「満足している」人生を送りたいものです。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「他人の感じる喜びが自分の喜び」を予定しております。ではまた次回。

 

 

非行

 皆さんこんにちは。今日のテーマは昨日予告していた通り「非行」です。お時間許す方は最後までお付き合いください。よろしくお願い致します。

 

 「非行」。反抗期が存在しない自分には全く理解のできない言葉でした。生きていく中で最も関わりの深い親に対して攻撃的な発言をしたり、実際に攻撃をしたり、何が気に入らなくて学校で暴れて先生を困らせて時にはクラスメイトを傷つけ迷惑をかけることをしたり、なぜそのようなことをするのかいつも疑問でした。自分の地元の公立中学校もいわゆる「非行少年・少女」がいました。正直、自分が小学生の頃から非行少年・少女がいることを知っていたので、公立中学校に通うことが嫌で中学受験をしました。校内でタバコを吸ったり、学校の窓ガラスを割ることなんて日常茶飯事で、よく警察官が校門の前に来ていました。小学生だった自分は警察官と中学生が話をしているのを横目に下校したこともありました。

 

 小学生の頃「やんちゃ坊主」と呼ばれるような少し学校の先生の厄介になるような児童がいましたが、その児童たちのことも理解できなかったです。そして、中学生からは非行とは真逆の世界で生きてきたような友人と平和な日々を過ごしていました。ある時、教員を目指すにあたって、「なぜ非行に走るのか」と考えてみることにしました。原因だと考えられるのはまず、「家庭環境」です。愛情不足で「いつも頑張っているの見ているよ」「よく頑張ったね」「今日学校で何したの?」「最近誰と仲良いの?」等とコミュニケーションを取っていないと「見てもらえている感覚」が常になくなってしまうため子どもは不安になります。そもそも物心がつき始め、幼稚園に通いだす頃から習慣づけておくことが大事なのではないかと思っています。「反抗期かもしれない…」と辞めるのではなく、続けるべきです。1番理解して欲しい親には「見捨てられることはない」と意識させることも必要ではないでしょうか。そして、「感情の表し方が分からない」ことです。思春期は特に自身の意見や考えを口にすることが恥ずかしい時期なので、非行をすることによってかまって欲しい「サイン」を出しているのではないかと思います。親御さんは非行でのサインの前にやるべきことがあるということが分かっていただけたのではないでしょうか。

 

 家庭でのコミュニケーションがどれほど大事なものか分かっていただけましたか。小学生の頃は自分も「非行少年・少女の気持ちなんて一切分からない」と目を背けてきましたが、非行少年・少女には事情があると分かってきました。「苦しい、辛い」ともがき、嘆き、戸惑いの気持ちをどこへぶつけたら良いのか分からない可哀想な人たちであるのかもしれないと思えるようにもなってきました。自分は学校であったことは120%親に話すタイプだったし、親にも感謝をしていたし非行に走ることもありませんでしたが、親御さんが話を聞いてくれる家庭ばかりでもないだろうし、親御さんと仲の良い関係を築けている子どもばかりでもないと思います。親の存在って本当に大きいし、育つ環境も本当に大事です。「なぜウチの子が…」ではなく、自身に原因があるかもしれないとまず思ってください。自分はそれが解決への第1歩だと思っています。親が「見守ってくれている」「応援してくれている」と子どもに感じさせることは、幼少期だろうが思春期だろうが必要なのではないでしょうか。読んでいただきありがとうございました。次回のテーマは「時間は無限であるようで有限」を予定しております。ではまた次回。